福島高晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福島 高晴(ふくしま たかはる、1573年(天正元年) - 1633年10月27日(寛永10年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。大和国宇陀松山藩主。別名に正頼。父は福島正信(高晴は次男)。兄に福島正則がいる。正室は村井貞勝の娘、継室は久留島長親の娘。
通称は助六郎。兄と共に豊臣秀吉に仕えて文禄3年(1594年)、伊勢国長島に1万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与して会津征伐に従軍し、西軍が挙兵すると本国に戻って西軍に与した氏家行広(桑名城主)を攻めた。その功績により戦後、大和宇陀松山3万石に加増移封される。
しかし慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏に内通(密かに兵糧を大坂城に入れていた説あり)していた嫌疑をかけられて改易される。ただし正晴の子・福島忠政は500石を与えられて名跡存続を許された。
改易後は道牛と号し、伊勢山田に蟄居。寛永10年(1633年)9月25日、61歳で死去した。
|
|
|