種子島久時 (16代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
種子島 久時(たねがしま ひさとき)は、戦国時代の武将で島津氏の家臣。種子島氏の第16代当主。
|
||||
時代 | 戦国時代。江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄11年(1568年) | |||
死没 | 慶長16年12月27日(1612年1月29日) | |||
別名 | 鶴袈裟丸。三郎二郎(幼名)。 種子島克時(別名) |
|||
諡号 | 一琢 | |||
戒名 | 世尊院日恕大居士 | |||
官位 | 左近大夫 | |||
氏族 | 種子島氏 | |||
父母 | 父:種子島時尭 | |||
兄弟 | 兄:種子島時次 | |||
子 | 種子島忠時(第17代当主) |
1568年、鉄砲伝来で有名な種子島氏第14代当主・時尭の次男として生まれる。第15代当主の座は長兄の時次が継いだが、その時次が早世したため一時父・時尭が復帰したあと、島津義久より家督相続を認められて元服し、第16代当主となった(義久が烏帽子親となり、”久”の字を拝領している)。その後は島津氏の家臣として沖田畷の戦いや大友氏との戦いに参戦する。1590年の小田原攻めにも参戦し、このときに豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上した。朝鮮出兵でも、島津義弘に従って渡海している。1595年、太閤検地の煽りを受けて種子島の領地は島津以久に与えられたため、代わりに薩摩国知覧院に所領を移されたが、1599年に種子島に所領を戻されている。その後は義弘、そしてその後を継いだ島津家久の家老として仕え、1611年12月27日に死去した。享年44。
後を子の忠時(第12代当主の忠時とは別人)が継いだ。なお、久時は鉄砲術に優れた腕を持った武将で、朝鮮出兵で島津軍が無類の強さを見せつけたのは、久時の鉄砲におけるところも大きいといわれている。このため、久時の鉄砲による武名は高かった。