立花忠茂
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立花 忠茂(たちばな ただしげ、1612年8月3日(慶長17年7月7日)-1675年11月6日(延宝3年9月19日))は、江戸時代前期の大名。筑後国柳河藩の第2代藩主。正室は永井尚政の娘、継室は徳川秀忠の養女(伊達忠宗の娘)。子に鑑虎、貞晟、娘(黒田綱政室)、娘(永井尚房室)。官位は従四位下、左近将監、侍従。
立花宗茂の弟・立花直次の四男で、子が無かった伯父・宗茂の養嗣子となった。将軍の相伴衆として江戸に詰めていた養父に代わり、寛永6年(1629年)頃に事実上家督を相続して藩政を司る。寛永14年(1637年)の島原の乱では、自ら軍を率いて参戦し、功を挙げている。寛永15年(1638年)、宗茂の致仕により正式に柳河藩の第2代藩主となり、藩政の安定に努めた。寛文4年(1664年)閏5月7日に四男の立花鑑虎に家督を譲って隠居し、延宝3年(1675年)に64歳で没。法名は忠巌好雪別峯院。
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