竹中正久
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竹中 正久(たけなか まさひさ、1933年11月30日 - 1985年1月27日)は、ヤクザ、四代目山口組組長。 兵庫県飾磨郡御国野村(現姫路市)出身。 「荒らぶる獅子」の異名をとる。 特高警察に拷問された兄・龍馬が早逝した経験から、反権力の姿勢を生涯貫いた。
祖父が助役、実父が村会議員を務めた兵庫県飾磨郡御国野村大字深志野(後の姫路市深志野)の農家に生まれるが、12歳の時に実父・龍次が死亡し、難関の姫路市立鷺城中学(後の姫路市立姫路高等学校)を中退。 暴力事件、傷害事件を繰り返し幾度も逮捕された後の1960年8月、地元の不良を糾合し竹中組を結成。のち三代目山口組若頭・地道行雄に見込まれ、1961年12月、親分・田岡一雄から盃を受けて、山口組に加入することとなる。
数百人の部隊と共に敵地・福岡に乗り込んで検挙された1962年の「博多事件」などで、山口組内でも有数の武闘派として、山健組組長・山本健一から絶大な信頼を受け、1971年、山本の若頭就任に伴い若頭補佐に抜擢された。 1978年2月、地元組織との抗争などで懲役2年の実刑判決が確定し、1979年9月まで神戸刑務所に服役した。 出所の際には、組関係者ら約1000人が出迎えに駆け付けた。
1981年7月の組長・田岡、1982年2月の若頭・山本の相次ぐ死で、風雲急を告げる格好となったトップとナンバー2を巡る争いは同年6月、過去に若頭・梶原清晴の事故死(1971年7月)による後任若頭争いで、一時は後任若頭に決まりながら山本健一の強い抵抗にあい、やむなく若頭就任を辞退させられた若頭補佐・山本 広(山広組組長)が組長代行に就任。 一方でナンバー2の若頭には「山本健一の遺志」として竹中正久が就任し、にわかに“山健派対山広派”の様相を呈すことになる中、竹中は若頭就任間もない同年8月に逮捕され、翌83年6月まで勾留された。
組内では過去に悲運を味わった山本 広に同情する者が多かったが、三代目の妻である田岡文子(フミ子)の強い意向で、1984年6月5日、遂に竹中は山口組四代目を受諾。同年7月10日に継承式が執り行われた。文子に反発した山広派は山口組を脱退、一和会を結成し山一抗争へと発展した。勢力数こそ当初は一和会が山口組を上回っていたものの、武闘派・竹中四代目の怒濤の攻撃(切り崩し)を前にして一和会は徐々に弱体化、焦った一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、同年9月には暗殺部隊を結成。 翌1985年1月26日、竹中は神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府吹田市のマンションで、待ち伏せていた一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡した。 竹中に同行していた若頭・中山勝正(豪友会会長)も射殺され、山口組は短期間の間に、再びトップとナンバー2を失う事態となった。
なお弟の竹中組組長・竹中 武が後に山口組若頭補佐に就任したが、若頭・渡辺芳則(二代目山健組組長)が五代目山口組組長に就任した際、山口組から脱退した。
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