山一抗争
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山一抗争(やまいちこうそう)は、主に兵庫県、大阪府で1984年8月5日から1989年3月30日にかけて山口組と一和会の間に起こった抗争。
死者数負傷者数ともに、暴力団抗争史上最悪の抗争となった。
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[編集] 山口組三代目田岡一雄の死去と後継争い
1981年7月23日に35年間に渡り山口組を率い、神戸の一組織から全国最大の組織へと拡大させた三代目組長田岡一雄が亡くなった。 田岡は生前後継を指名せずにこの世を去ったが、四代目は服役中の山本健一若頭(山健組組長)の就任が確実視されていた。
しかし、その山本健一も持病を悪化させ、後を追うように翌年2月4日この世を去った。 山口組は2人の指導者を同時に失ったことで、大きく動揺した。
さしあたり同年6月に実力者である山本広(山広組組長)を組長代行、竹中正久(竹中組組長)を若頭とする暫定政権を敷いた。 しかし山本広が一方的に四代目に立候補したことで、山口組は山広派と竹中派に分裂していった。
数に勝る山広派は9月15日の直系組長会で多数決で四代目を決めると宣言したが、竹中派の強硬な反発と山口組の分裂を避けたい田岡文子(死亡した前組長田岡一雄の妻)の説得により延期となった。
[編集] 竹中正久四代目の誕生と一和会の旗揚げ
その後、田岡文子は、竹中派に立ち後継指名争いに介入していった。
田岡文子が竹中を支持したのは以下の2つの理由からだとされる。
まず、田岡一雄が生きていれば、山本広は後継者に指名されなかったであろうと言う推測。 これは、1971年の若頭選出の際に山本広を選ばずに、山本健一を選んだことが脳裏にあったからだと言われている。
もう一つは、山本広と距離のあった山本健一が生きていれば、竹中を選んだであろう、という推測である。
そのような情勢から1984年6月5日に竹中正久の四代目就任が決定した。 これに反発する山広派は竹中四代目は認めないとして6月13日に一和会を結成した。 程なく、翌月7月10日霊代田岡文子、後見人稲川聖城(稲川会初代会長)で襲名式が行われた。
8月5日に一和会を認めない山口組組員が和歌山県串本町で一和会系組員を刺殺する事件を起こした.この事件をきっかけに、本格的な抗争へと突き進むことになった。
[編集] 一和会勢力の取崩しと竹中正久四代目暗殺
1984年の抗争当初の勢力は一和会が6千人、山口組が5千人程で一和会の方が優勢であった。 しかし、山口組側が一和会に参加した幹部を絶縁とし、態度保留組を取り込むなどして徐々に一和会勢力の取崩しを図っていった。 こうした取崩し工作のため半年後に一和会勢力は3千人未満にまで落ち込んだ。 危機感を募らせた一和会側は山広組を中心に、竹中を暗殺する計画を立てた。
程なく竹中の愛人が吹田市のマンションに住んでいることを突き止めた暗殺部隊は、同マンションの一室を借り機会を伺った。
1985年1月26日21時15分過ぎ竹中を認識した暗殺部隊は、エレベーターホールに居る竹中正久、山口組若頭中山勝正(豪友会会長)、ボディーガード役の南力の3名を銃撃。 中山勝正と南力は頭部に被弾してその場でほぼ即死した。 竹中には3発の銃弾が命中し瀕死の状態となった。特に1発目と3発目は内臓、心臓に大きな損傷を 与え体内に留まり致命傷となった。竹中は治療の甲斐も無く翌日27日に意識の戻らぬまま息を引き取った。
[編集] 抗争の激化と長期化
組長と若頭の最高幹部2人を同時に失うという非常事態を迎えた山口組は舎弟頭だった中西一男を組長代行に、若頭補佐だった渡辺芳則(山健組組長)を若頭に選出した。
竹中の暗殺は山口組の報復の気運を一気に盛り上がらせることになり、一和会は以降山口組の一方的な攻勢にさらされることとなった。
同年にはかつての身内同士の争いに心を痛めていた田岡文子が亡くなったが、この頃から、稲川会などを中心に抗争終結に向けた工作が取られるようになった。
加えて、多額の戦費を必要とする抗争が長期化するに至って、警察の警戒強化のため普段のシノギが厳しくなり、2大勢力の総力をかけた抗争は経済戦の様相も呈してきた。
長期戦になると経済力で劣る一和会側の末端に離脱者が相次ぐようになった。 1986年に入ると稲川会、会津小鉄会の奔走で一応の停戦状態になったが、手打ちには至らなかった。
翌1987年5月7日には一和会副会長兼理事長の加茂田重政(加茂田組組長)が自身の引退と加茂田組の解散を表明して抗争から離脱。また一和会最高顧問の中井啓一(中井組組長)も離脱・引退していった。
追い討ちを掛けるように竹中組組員によって、山広邸の襲撃や爆破事件が起こり、直系組長の離脱が相次ぐようになった。
また、抗争が長期化した要因としては、暴力団の内紛を利用して、組織の弱体化を図った警察の思惑もあったとされる。
[編集] 抗争の終結
1988年末時点において勝敗は決していた。 一和会組員は最後には山本広会長の周囲に20人程しか居なくなったと言われている。
抗争の終らせ方を決めれば良いだけの状況になった山口組は、若頭渡辺芳則の外交手腕から稲川会、会津小鉄会を仲介して山本広の引退と一和会の解散を取り付けた。
1989年3月30日、稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れた山本広は侘びを入れ、5年に渡った抗争は終結した。
この山一抗争では、317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者17人、負傷者49人、山口組側に死者8人負傷者17人を出す最悪の結果となった。
[編集] 意義
[編集] 法規制
- テロ組織や組織暴力へのマネー・ロンダリングの強化、アメリカにおける「RICO法(英語)」の研究など司法によるプログラムはすでに組まれていたが、大規模な抗争事件は1991年の暴力団対策法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)の制定に一役買った形となる。
[編集] 山口組
- 抗争終結に反対する山口組の一部は、終結後も執拗な攻撃を加えることがあり、完全終結にはまだ時間を要した。
- 抗争の終結に功績のあった、渡辺芳則、宅見勝(宅見組組長)や岸本才三(岸本組組長)を中心として5代目山口組体制が形成されていった。
[編集] 業界全体
- 公営ギャンブルからの「ノミ屋」排除など警察による締め付けは業界全体を巻き込み、いわゆるスケール・メリットで大きな団体は運営ができるが、特に東日本の的屋組織は大打撃を受け、大手の系列化への道を選択する結果となる。それまでは極東と源清田や寄居、住吉と寄居、西海家といった幹部同士の結びつきであったが、家名を下ろし代紋を変える団体が増える。
- 北海道の誠友会、荻原敬愛会や長江一門(源清田)、仙台の西海家、錦戸連合(東京盛代)、名古屋の導友会、瀬戸一家などが主導権を握っていた地方のサークル(北海道同行会、中京五社会など)の時代が終わろうとしており、その意味で札幌・誠友会の抗争中の山口組入りは象徴的である(これ以降島影同族会などの未開拓の上越ブロックにも進出。新潟への進出が遅れたのは角さんの声があったからという)。一方で抗争中も仲裁人の会津小鉄会が函館の小松家へ、稲川会も巽会(新潟)へと食指を伸ばすなど、抜け目のない面を見せている。
- 同時にこれ以降のヤクザの喧嘩は「組員を招集して動員」というまどろっこしいものでは無くなり、二次団体傘下の組織(三次団体)がそのまま現地に向かえるだけの組織力・経済力をもっているかどうかで勝敗が決まる「早い者勝ち」の殲滅戦の様相を呈してくる。
[編集] 参考書籍
- 溝口敦著 『撃滅 山口組vs一和会』(講談社 2000年)
[編集] 関連項目
- 小西邦彦