米津政易
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米津 政易(よねきづ まさやす、文政12年8月23日(1829年9月20日) - 明治6年(1873年)5月)は、江戸時代後期から末期の大名。出羽長瀞藩の第3代藩主。庄内藩主・酒井忠器の十男。酒井忠発の弟に当たる。官位は従五位下、相模守。
文政12年(1829年)8月23日生まれ。嘉永6年(1853年)に先代藩主・米津政懿が死去したため、嘉永7年(1854年)にその養嗣子として後を継いだ。同年12月に叙任する。白水川治水工事や開発工事、大崎七郎左衛門を登用しての茶や桑などの栽培による殖産興業奨励などによる民政に尽力した。また、大坂から陶工を招いて上ノ畑焼を興している。万延元年(1860年)5月9日、実弟の米津政明に家督を譲って隠居し、明治6年(1873年)5月に死去した。享年45。
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