細川斉樹
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 寛政9年1月13日(1797年2月9日) | |||
死没 | 文政9年2月12日(1826年3月20日) | |||
別名 | 六之助(幼名) | |||
諡号 | 芝田、竜門、楽山、竜田 | |||
戒名 | 諦観院春谷宗甚 | |||
墓所 | 東京都品川区北品川の東海寺少林院 | |||
官位 | 従四位下、左近衛権少将、越中守 | |||
藩 | 肥後熊本藩主 | |||
氏族 | 細川氏 | |||
父母 | 父:細川斉茲、母:織衛(芳沢氏、桂秋院) | |||
兄弟 | 細川立之、細川斉樹、浜次郎、 細川茲詮、猪八郎 |
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妻 | 正室:一橋治済の娘・紀姫(蓮性院) 側室:坂内氏 |
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子 | 1男2女、養子:細川斉護 |
細川 斉樹(ほそかわ なりたつ)は、肥後熊本藩の第9代藩主。
寛政9年(1797年)1月13日、第8代藩主・細川斉茲の子として生まれる。文化7年(1810年)11月10日、父の隠居により家督を継いで藩主となる。藩政においては、島田嘉津次を大奉行として登用し、倹約を主とする藩財政再建を目指した。これにより一時は10万石にも及ぶ蓄えを築くに至ったが、斉樹自身が文政9年(1826年)2月12日に30歳の若さで他界してしまったことから、結局、藩財政再建は失敗に終わった。
後を支藩の宇土藩主であった立政が、養子として継いだ。
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