細川斉茲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
細川 斉茲(ほそかわ なりしげ)は、肥後宇土藩の第6代藩主。後に本家を継ぎ、肥後熊本藩第8代藩主となる。
|
||||
時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 宝暦5年4月26日(1755年6月5日) | |||
死没 | 天保6年10月23日(1835年12月12日) | |||
別名 | 与松(幼名)、立札(宇土藩主時代) | |||
諡号 | 青田、鶴城、青栄 | |||
戒名 | 諦了院覚海義広 | |||
墓所 | 熊本県熊本市黒髪の泰勝寺 | |||
官位 | 従五位下、和泉守、従四位下、侍従、 越中守 |
|||
藩 | 肥後宇土藩主→肥後熊本藩主 | |||
氏族 | 細川氏 | |||
父母 | 父:細川興文、母:長照院 養父:細川治年 |
|||
兄弟 | 細川興武、謡台院、細川斉茲、 細川孝龐、石川墺彬、冬菊 |
|||
妻 | 正室:岩城隆恭の娘・八千姫(恵眼院) 側室:今井氏、山守氏、松岡氏、杉野氏、 守氏、芳沢氏 |
|||
子 | 5男6女(細川立之、細川斉樹、浜次郎、 細川茲詮、猪八郎、 峯(松平斉恒室のち一条忠良室)、柏 |
宝暦5年(1755年)4月26日、宇土藩の第5代藩主・細川興文の次男として生まれる。明和9年(1772年)1月25日、父の隠居により家督を継いで宇土藩主となり、12月18日に従五位下、和泉守に叙任する。宇土時代には、藩財政再建のために倹約を行ない、天明の大飢饉で大被害を受けたときには、窮民救済に尽くした。
天明7年(1787年)、本家の熊本藩主・細川治年が死去すると、治年の実子が全て早世していたことから、支藩の宇土藩主だった彼が治年の養子となって後を継ぐこととなる。宇土藩主はそれにより、長男の立之が継いだ。このとき、名を立礼から斉茲に改名している。熊本藩主時代には、先々代の名君・細川重賢以来の名臣を登用して倹約を主とした藩財政再建に乗り出す。1792年10月には銀札を発行して藩財政再建を目指したが、これが不首尾に終わって享和2年(1802年)には御銀所騒動が起こってしまった。しかも江戸の藩邸が焼失するなど、結局は出費も重なり、藩財政再建には失敗した。
文化7年(1810年)11月10日、次男の斉樹に家督を譲って隠居し、天保6年(1835年)10月23日に死去。享年81。
|
|
|
|
|
|