細川興文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
細川 興文(ほそかわ おきのり、1723年10月11日(享保8年9月13日)-1785年8月9日(天明5年7月5日))は、肥後国宇土藩の第5代藩主。父は第3代藩主・細川興生(興文は三男)。母は竹間氏(妙禅院)。正室は八条隆英の娘。側室は雨森氏、長照院。子に立礼、娘(細川治年室)、娘(丹羽氏福室)。官位は従五位下、中務少輔。
享保8年(1723年)9月13日生まれ。幼名は哲之助。初名は興周。延享2年(1745年)、嗣子の無かった兄・細川興里の養嗣子となり、同年の兄の死去により家督を継いだ。この頃、宇土藩でも財政窮乏化が進んでいたが、興文は本家の細川重賢と協力して藩政改革に取り組んだ。興文は櫨などの栽培を奨励し、儒学者の江口恵次郎を招聘して藩校・温知館を創設する。さらに茶道においても小堀長順を招聘して学ぶなど、殖産興業政策や教育制度の確立に尽力した。明和9年(1772年)正月25日、病により家督を子の細川立札に譲って隠居し、月翁と号した。天明5年(1785年)7月5日、63歳で死去。
文化人としても優れており、隠居した翌年には蕉夢庵を建築し、茶道書である『平置諸品集』や歌集である『桂源遺稿』、『自家便覧』など多くの著作を残している。
|
|
|