総進軍大会
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総進軍大会(そうしんぐんたいかい)は1944年、日本野球報国会(にほんやきゅうほうこっかい)が主催した非公式の職業野球試合のことである。
日本野球報国会は、太平洋戦争の悪化による日本政府の非常処置要綱の発令から、戦争の戦力増強にかかわりのない娯楽については戦争が終結するまで一切行ってはいけないという取り決め事項を考慮して、日本野球連盟が組織名を1944年に改正したものである。
そういった戦局悪化を背景に、企業が職業野球を続けることが困難になったことから1944年度のペナントレース(連盟戦)は、前年の8チームから大和軍と西鉄軍(現在の西武ライオンズとは系譜が異なる)の2チームが解散。6チームで開催されたが、選手らも軍事産業への活動を義務付けられたことから週末の土・日曜のみの開催に制限され試合数が激減。
その後、戦局の悪化から選手の軍隊召集令が多発し、選手の編成も難しくなってきたことから秋季連盟戦は取りやめとなり、リーグ戦も7回総当り・35試合の終了時点で打ち切りとなった。その秋季連盟戦に代る番組として開催されたのがこの総進軍大会である。
総進軍大会は夏季連盟戦の成績を参考として阪神軍・産業軍の連合軍、阪急軍・近畿日本軍(後の近鉄バファローズではなく南海ホークスの前身)の連合軍、そして東京巨人軍・朝日軍の連合軍の3チームで構成し、9月に後楽園、甲子園、宝塚の3球場を舞台に総当りリーグを展開した。
この後更なる戦局悪化を理由として日本野球報国会はペナントレースの一時開催停止を宣言。これにより1945年は1年間公式戦を中止することとなる。