織田秀親
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織田 秀親(おだ ひでちか、寛文2年11月5日(1662年12月15日) - 宝永6年2月16日(1709年3月26日))は、大和柳本藩の第4代藩主。第3代藩主・織田秀一の長男。母は側室の某氏。初名は長昌。通称は源七郎、監物。
寛文2年(1662年)11月5日誕生。寛文13年(1673年)5月11日将軍徳川家綱に御目見する。貞享4年(1687年)9月17日家督を相続した。元禄元年(1688年)、数奇屋橋門番を命じられる。元禄16年(1703年)5月、駿府加番を命じられた。宝永6年(1709年)1月15日、前将軍徳川綱吉の葬儀に際し、朝廷からの使者の御馳走役を命じられる。同役は前田利昌であった。同年2月6日(または2月16日)、前将軍徳川綱吉の法会が寛永寺で行なわれているときに、発狂した前田利昌によって殺害された。享年48。幕府は、養子織田成純の家督相続を認めた。法号:祥光院殿椿岑宗久大居士。
秀親は体格が相当あり、武芸も達者であったと伝えられている。厠に行った隙を突かれて刺殺されたという。
正室は土井利房の養女(土井利隆の娘、光曜院)。織田秀行ら4男5女あり。
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