寛永寺
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寛永寺 | |
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旧寛永寺五重塔(重要文化財) |
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所在地 | 東京都台東区上野桜木一丁目14番11号 |
位置 | 北緯35度42分45.35秒 東経139度46分24.7秒 |
山号 | 東叡山 |
宗派 | 天台宗関東総本山 |
本尊 | 薬師如来(秘仏、重要文化財) |
創建年 | 寛永2年(1625年) |
開基 | 徳川家光、天海(発願) |
正式名 | 東叡山 寛永寺 円頓院 |
別称 | |
札所等 | 江戸三十三箇所6番 |
文化財 | 旧本坊表門、清水観音堂、木造薬師三尊像ほか(重要文化財) 徳川家霊廟 |
寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。
徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
目次 |
[編集] 起源と歴史
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は徳川家により新たに建立された寺院である。元和8年(1622年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠と、当時の天台宗の高僧・天海は一大寺院の建立を発願した。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(寺僧の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
その後、堂塔の整備には数十年を要し、元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時、今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂にあたる根本中堂が完成した。この堂は間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模のものであった。
近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。承応3年(1654年)、後水尾天皇第3皇子・守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が門主を務めた。門主は「輪王寺宮」と尊称され、日光山、比叡山の山主をも兼務して絶大な宗教的権威をもっていた。
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。
上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇は焼失した。彰義隊の戦で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの建物は、上野公園内の各所に点在している。
[編集] 伽藍
- 本堂(根本中堂)-東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。
- 書院-徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている。(非公開)
- 旧本坊表門(重要文化財)-通称:黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは、現在の東京国立博物館正門の位置にあった。
- 清水観音堂(重要文化財)-上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにあり、千手観音を祀る。寛永8年(1631年)の建築。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造(かけづくり)建築である(清水観音堂を清水寺に、不忍池を琵琶湖に見立てているという)。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。
- 弁天堂-上野公園南側にある不忍池(しのばずのいけ)の中之島に天海が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立。昭和20年(1945年)3月の戦災で焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。
- 旧寛永寺五重塔(重要文化財)-寛永16年(1639年)古河城主土井利勝によって再建された。現在、塔は上野動物園の敷地内にあり、所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。
[編集] 徳川家霊廟
東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。かろうじて焼け残った以下の建造物が重要文化財に指定されている。
- 厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
- 常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
いずれも寛永寺霊園内にあり、一般公開されていないが、厳有院霊廟の勅額門は、外の道路から見ることができる。
(徳川家霊廟については増上寺の項も参照)
[編集] 文化財
- 重要文化財
- 清水観音堂
- 旧本坊表門
- 厳有院霊廟 (*)印の物件は個人の所有
- 勅額門
- 水盤舎
- (*)奥院唐門(銅造)
- (*)奥院宝塔(銅造)
- (*)附:浚明院宝塔、文恭院宝塔(各石造)
- 常憲院霊廟 (*)印の物件は個人の所有
- 勅額門
- 水盤舎
- (*)奥院唐門(銅造)
- (*)奥院宝塔(銅造)
- (*)附:有徳院宝塔、孝恭院宝塔、温恭院宝塔、天璋院宝塔(各石造)
- 木造薬師三尊像
- 本堂(根本中堂)に安置する秘仏本尊。中尊も含め、3体とも立像である点が珍しい。中尊と両脇侍は別個に制作されたもので、中尊は滋賀県・石津寺から、両脇侍は山形県・立石寺から移されたもので、寛永寺の創建より古い、平安時代の作である。本堂内は非公開で、秘仏開扉の日も定められておらず、拝観はできない。(薬師三尊像は2006年3月28日~5月7日に東京国立博物館で開催された特別展「最澄と天台の国宝」に出展され、初めて一般公開された。)
- 絹本著色両界曼荼羅図 - 東京国立博物館に寄託。
- 天海版木活字 - 開山の天海が刊行した「天海版一切経」の印刷に使われたもので、近年の調査でようやく全貌が明らかになった。26万4,688個の活字が2003年に重要文化財に指定されている。