美濃路
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美濃路(みのじ)は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還である。関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市(旧尾西市))から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。公用道として重視された街道で、朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した
[編集] 美濃路の主な通行
- 朝鮮通信使(10回)
- 美濃路では、大垣泊、墨俣または起で休憩、名古屋泊が通例であった。
- 琉球王使(11回)
- 最初は東海道経由であったが、1714年(正徳4年)以降は、美濃路経由となった。休泊地は一定していなかった。
- お茶壺道中(毎年)
- 往路は東海道を茶壺が運ばれ、宇治で新茶がつめられて、帰路は中山道を経由するというのが通例だったが、元禄以降、帰路は美濃路経由が多くなった。
- 象の通行(1729年)
- 美濃路での行程は、垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休。
[編集] 宿場一覧
[編集] その他
東海道本線・東海道新幹線・東名高速道路などは、東京から熱田までは江戸時代の「東海道」に沿って敷かれているが、岐阜~草津間では「中山道」、そして熱田~岐阜間では「美濃路」に沿って敷かれている。
これは、最初に敷かれた東海道本線が、琵琶湖水運を用いて迅速に東西の交通路を作ろうとしたことと、岐阜~名古屋~大府~武豊間に当初東西の交通路として建設予定であった「中山道線」(東京~高崎~諏訪~多治見~岐阜~草津~京都~大阪)の資材を運ぶため、愛知県武豊町の港を活用する事にしてそこからの輸送用の仮線を敷設し、その後「中山道線」が「東海道線」に計画変更されたが、既に神戸~大阪~京都~大津間と長浜~岐阜~武豊間の路線が開業していた(大津~長浜間が琵琶湖海運)ことから、熱田以西を本来の東海道から現行ルートに変更したことに由来している。