茨木のり子
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茨木 のり子(いばらぎ のりこ、1926年6月12日 - 2006年2月19日)は、同人誌『櫂』を創刊し、戦後詩を牽引した日本を代表する女性詩人にして童話作家、エッセイスト、脚本家である。本名、三浦 のり子(みうら のりこ)。
戦中・戦後の社会を感情的側面から清新的に描いた叙情詩を多数創作した。主な詩集に『鎮魂歌』、『自分の感受性くらい』、『見えない配達夫』などがある。
終戦後、童話作家・脚本家として活躍する。1950年に医師である三浦安信と結婚。家事のかたわら雑誌「詩学」への投稿を始め、村野四郎に詩人としての才能を見出される。1953年に川崎洋と同人誌「櫂」を創刊し、谷川俊太郎・大岡信・吉野弘など第二次戦後派と呼ばれる新鋭詩人を多数輩出した。新川和江は「戦後現代詩の長女」と評した。
「私が一番きれいだったとき」は多数の国語教科書に掲載され、彼女の最も有名な詩のうちの1つである。
なお、出身地である大阪府には茨木(「いばらき」)という市があるが、彼女の苗字の読みは「いばらぎ」のため読み間違えないように注意。
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[編集] 経歴
大阪府生まれ。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き20歳の時に終戦を迎え、1946年に同校を卒業する。帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれたり、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年に医師である三浦安信と結婚。家事のかたわら雑誌「詩学」への投稿を始め、村野四郎に詩人としての才能を見出される。1953年に川崎洋と同人誌「櫂」を創刊し、谷川俊太郎・大岡信・吉野弘など第二次戦後派と呼ばれる新鋭詩人を多数輩出する。1991年に『韓国現代詩選』で「読売文学研究・翻訳賞」を受賞。
2006年2月、東京都西東京市病気のため東伏見の自宅で死去。享年79。(茨木は一人暮らしで、2月19日に訪ねて来た親戚が寝室で死亡しているのを発見。 すでに遺書は用意されてあった。)
[編集] 著書
- 詩集・詩論集・エッセイ集
- 『おとらぎつね』(さ・え・ら書房、1969年)
- 『人名詩集』(山梨シルクセンター出版部、1971年)
- 『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書、1979年)
- 『うたの心に生きた人々』(筑摩書房、1994年)
- 『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)
- 『倚りかからず』(筑摩書房、1999年)
- 『茨木のり子集言の葉 1~3』(筑摩書房、2002年)
- 『おんなのことば』(童話屋、1994年)
- 『個人のたたかい』(童話屋、1999年)
- 『対話』(童話屋、2001年)
- 『鎮魂歌』(童話屋、2001年)
- 『見えない配達夫』(童話屋、2001年)
- 『言の葉さやげ』(花神社、1975年)
- 『自分の感受性くらい』(花神社、1977年)
- 『寸志』(花神社、1982年)
- 『食卓に珈琲の匂い流れ』(花神社、1992年)
- 『茨木のり子詩集』(思潮社、1969年)
- 『汲む』(北泉社、1996年)
- 『お-いぽぽんた』(福音館書店、2001年)
- 『落ちこぼれ』(理論社、2004年)
- 『うたの心に生きた人々』(福音館書店、2006年)
- 『歳月』(花神社、2007年)
- 訳書
- 『うかれがらす』(筑摩書房、1986年)
- 『韓国現代詩選』(花神社、1990年)
- 一般書
- 『詩のこころを読む』(岩波書店、1976年)
- 『ハングルへの旅』(朝日新聞社、1986年)
- 『言葉が通じてこそ、友だちになれる』(筑摩書房、2004年)
- 『思索の淵にて』長谷川宏・共著(近代出版、2006年)