蒔田広定
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蒔田 広定(まいた ひろさだ、1571年(元亀2年)?-1636年9月22日(寛永13年8月23日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。備中国浅尾藩の初代藩主。父は蒔田広光(広定は次男)。母は木下氏。官位は従五位下。左衛門権佐。
尾張国織津に生まれる。生年は元亀2年(1571年)、天正3年(1575年)など諸説がある。豊臣秀吉に仕え、その小姓頭となった。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前国名護屋城に駐屯する。文禄4年(1595年)に父の広光が死去したため、家督とその所領である伊勢国雲出藩1万石を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍勢力下にあった伊勢国安濃津城攻めに参加し、同地を占領した。しかし西軍が関ヶ原本戦で敗北すると、高野山に逃れて蟄居し、所領は没収されて改易となった。
その後、浅野長政や浅野幸長らの弁護もあって罪を許され、備中浅尾(現在の岡山県総社市)に1万石を与えられて浅尾藩を立藩した。大坂の陣後に徳川秀忠の御伽衆となる。元和9年(1623年)、寛永3年(1626年)の徳川秀忠・徳川家光父子の上洛にも付き従った。寛永13年(1636年)8月23日に死去。
死後、家督は長男の蒔田定正が継いだが、定正は弟の蒔田長広と1万石の所領を分割して相続したため、蒔田氏は大名ではなく、旗本として存続することとなり、浅尾藩は廃藩となったのである。
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