蒔田定正
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蒔田 定正(まいた さだまさ、天正19年(1591年) - 寛永17年12月29日(1641年2月9日))は、備中国浅尾の大身旗本。父は備中国浅尾藩主の蒔田広定(定正は長男)。母は大島光義の娘。正室は戸田尊次の娘。官位は従五位下。玄蕃頭。
幼名は久太郎。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では父と共に徳川方として参戦する。後に相模国内で500石、さらに甲斐国内などで800石を与えられ、寛永11年(1634年)5月には御使番、同年8月には大坂目付となった。寛永13年(1636年)、父の死去により家督を継ぐが、このときに父の遺言で3000石を弟の蒔田長広に分与したため、定正は大名から8316石の旗本となった。
その後、駿府目付や池田光仲の目付などを務める。寛永17年(1640年)12月29日、因幡国から帰国中の近江国草津にて死去した。享年50。後を蒔田定行が継いだ。法号:隆光院宗真日照。墓所:滋賀県草津市草津一丁目の円融寺。
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