薄氏
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薄氏(はくし ?~紀元前156年)は、秦末から前漢前期にかけての人。高祖の側室で文帝の生母。
薄氏の母・魏氏は、魏の王族の生まれだったが、魏の滅亡後、薄某と関係を持ち薄氏と弟の薄昭が生まれたといわれる。
成人後、西魏王・魏豹の後宮に側室として迎えられるが、この時彼女の人相を占った許負は彼女を見て
「貴方様は、天子様をお生みなさるでしょう。」
と、言ったといわれる。
それを真に受けてか、魏豹が劉邦に対して謀反を起こし、捕らえられると薄氏も捕らえられ劉邦の後宮に側室として迎えられることとなった。しかし、劉邦から寵愛されることはなく、周囲の笑い者となっていることを知った劉邦は、不憫に思い、彼女を自身の寝所に召し入れた。この時、薄氏は妊娠し、紀元前202年に男の子(劉恒)を産む。これ以降も、薄氏は劉邦の寝所に召されるなどの寵愛を得ることは少なかったが、劉恒が代王に封建されると、自身も代王太后として、弟の薄昭及び代の宰相として高祖から劉恒に附けられた傅寛等とともに任国に赴き、高祖の没後に実権を握った呂雉による高祖の側室及び彼女達の産んだ皇子達への迫害にも巻き込まれることなく、ここで劉恒の成長を見守りつつ平穏に過ごしていたようである。
紀元前180年に、呂氏一族が周勃、陳平、劉章等のクーデターにより皆殺しにされると、劉恒が皇帝(文帝)として迎えられると、薄氏も皇太后として長安に迎えられる。ちなみに、前漢の歴史上、皇后にならずに、皇太后の称号を贈られたのは、薄氏ただ一人である。
文帝と薄氏とのやりとりでは、このような話が残っている。紀元前176年、地方へ赴任させられた周勃が謀反の兆しがあるとの伝えが届き、文帝が周勃を牢に入れた。その話を聞いた薄氏が文帝を呼びつけ、文帝に対し頭巾を投げつけ「周勃は呂氏の時代に玉璽を預かっていた身なのに、どうして謀反を起こせようか?」と叱りつけ、その後周勃は牢から出され、復職した。また紀元前167年、文帝自ら指揮し匈奴を討つと言ったために家臣が諫めたが聞かず、代わりに薄氏が諫めると自ら匈奴を討つことを撤回している。また、文帝自ら母である薄氏の毒味役を務めたりと、類を見ない親孝行の皇帝であると二十四孝に記されることとなった。
以降は、「皇太后陛下」として、呂雉のように権力を振るうことなく周囲の尊敬を一身に集めながら、薄昭が勅使を殺害した責任を問われ自殺させられたことと文帝に先立たれたことを除けば、平穏無事に紀元前156年に生涯を閉じた。
尚、新末期に漢王朝の復活を願う政治勢力が、山東地方を拠点に新王朝に反旗を翻すと、呂氏一族による簒奪を防いだとして、劉章が再評価され、文帝とその生母である薄氏の評価が高まった。後漢が成立した後、光武帝は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、薄氏に高皇后の諡号を追贈した。