藤原基衡
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藤原 基衡(ふじわら の もとひら、長治2年(1105年)頃 - 保元2年3月19日(1157年4月29日)?)は奥州藤原氏第2代当主。
源師時の日記『長秋記』大治5年(1130年)6月8日の条に藤原清衡の子で1128年の清衡の死後、兄である「小館」惟常ら兄弟と争う。基衡は惟常の「国館」を攻め、惟常は越後に落ち延びるが、基衡と対立する他の弟と反撃に出る。基衡はこの合戦に勝ち、奥州藤原氏の当主となる。
康治元年(1142年)陸奥守藤原師綱が信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、地頭大庄司季治がこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。師綱は季治の主人である基衡を糾弾する。季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。
基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院の近臣藤原基成と結び、その娘を嫡子藤原秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。
また、左大臣藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。
1150年-1156年にかけて、毛越寺(もうつうじ)に大規模な伽藍を建立した。また、基衡の妻は観自在王院を建立している。
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