藤原清衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原清衡(ふじわらのきよひら、天喜4年(1056年) - 大治3年7月17日(1128年8月14日))は平安時代末期の武将で奥州藤原氏の祖
目次 |
[編集] 出自
陸奥国亘理の豪族亘理経清と、安倍氏の女の間の子として生まれる。幼名不詳。(亘理郷土史によると権太郎・東北大教授佐佐久監修)なお、亘理経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。
父・経清は前九年の役にて安倍氏に味方し、源頼義に反旗を翻したが厨川の戦いで敗れ、安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。
[編集] 後三年の役
清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子真衡、清衡、異父弟になる家衡があったうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。
秀武が真衡に背くと清衡、家衡はこれに同調したため、真衡は陸奥守であった源義家の支援を受けて清衡、家衡を攻めた。清衡、家衡は大敗して逃走するが、直後に真衡が死亡する。清衡、家衡は義家に降伏し、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続する。
義家の裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。
義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。
[編集] 平泉造営
清衡は本拠地を江刺郡豊田館(奥州市域)に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納する等して、奥羽の統治者としての地位を築いた。寛治6年(1092年)6月の陸奥守藤原基家の解文では、清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられているが、この頃陸奥押領使となったのではないかと推定されている(任押領使を寛治3年(1089年)とする見解もある)。嘉保年中(1094年-1095年)頃には、磐井郡平泉(平泉町域)に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手、中央の仏教文化を導入して中尊寺を再建し、平泉に壮大な都市をつくり、平泉四代100年の中央政権と一線を画した時代を実現した。金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年(大治3年)当時としては、長命の73歳で没した。
[編集] 追録
また、清衡の妻として「北方平氏」が史料によく現れる。「北方平氏」は正妻であるとされている。しかし出自に関しては明らかではなく、父経清の母方である平国妙の縁者、越後城氏、海道平氏岩城氏、常陸大掾氏、都の平氏の誰かなど諸説があるがどれも決め手には欠ける。 「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。
なお、『中右記』に見える「兵衛尉清衡」、「平清衡」を清衡のこととし、寛治~康和年間に、妻の姓である「平」を名乗り在京し任官していたとする説がある。
[編集] 関連項目
- TVドラマ
|
|
|