藤原秀衡
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藤原秀衡(ふじわらのひでひら、1122年(保安3年)? - 1187年11月30日(文治3年10月29日))は奥州藤原氏第3代当主。官位は鎮守府将軍従五位下。藤原基衡の嫡男。子に藤原国衡・藤原泰衡・藤原忠衡・藤原高衡・藤原通衡・藤原頼衡。
陸奥守として下向した院の近臣藤原基成の娘と婚姻し、院へも影響力を及ぼしている。
[編集] 生涯
父祖の偉業を引継ぎ、「北方の王者」としてその勢力を磐石のものとした。しかし、秀衡はその財力により奥州だけではなく中央政権にも繋がりを持ち、1170年には鎮守府将軍に任命されている。1174年頃には鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。1180年、源頼朝が平氏打倒のために挙兵すると、源義経はその軍に加わるため鎌倉へ向かおうとする。秀衡は義経の身を案じ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。1181年には、平氏の掌握する朝廷より陸奥守に任じられ、源氏討伐を命じられるが、形勢を静観し動くことはなかった。1187年、頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を再び平泉に匿うが、同年10月、義経が平泉入りをしてからわずか九ヶ月、病に倒れ、子の泰衡、国衡、忠衡に義経を主君となして仕えるよう遺命して没した。 その遺骸は中尊寺金色堂に納められ、現在も中尊寺に眠っている。
[編集] 人物
- 冷静沈着にして豪胆な人物であったといい、歴史小説などでも英邁な君主として描かれることが多い。砂金の産出や中国との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地に王道楽土を現出させている。マルコ・ポーロが東方見聞録に記した黄金の国は奥州平泉がモデルではないかとも言われている。
- 外交に関しては、巨大な経済力をバックに平氏と友好的な関係を維持しながらも、源氏の御曹司である源義経を匿い、平氏の勢力が衰えると源頼朝とも平和的な関係を築き、源義経が頼朝と不和となり、秀衡を頼ると、これを受け入れ鎌倉政権への抑えとしている。
- また、舅である藤原基成はもと院の近臣で、近親者に多数後白河の側近がいた。義経の実母常盤御前の再婚相手の一条長成もその一人であった。秀衡が義経をかくまった理由のひとつに後白河の意向があったことも推測される。
- 彼の死後、わずか2年で奥州藤原氏は滅びるが、奥州に花開いた文化は現代にもその輝きを伝えている。
- 金色堂にのこされたミイラのDNA鑑定から、血液型AB型と判明している。
[編集] 関連項目
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