藤原基成
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藤原 基成(ふじわら の もとなり、生没年未詳)は、平安時代末期の貴族。藤原北家道隆流大蔵卿藤原忠隆の子。 保安元年(1120年)ごろ出生。母は藤原季孝の娘。異母弟に平治の乱の首魁であった藤原信頼らがいる。陸奥守、民部少輔。『平治物語』には「基通」という名で登場する。
父忠隆は白河院の近臣として有名で、兄弟達も院の近臣となっている。また、妹が関白藤原基実の正妻で、実子の基通も関白になっている。
康治2年(1143年)に陸奥守に任官し、奥州平泉へ下向する。在職中、奥州の実質的な支配者である奥州藤原氏の頭領・藤原基衡と親交を結び、仁平3年(1153年)に任期を終えた後も現地に逗留する。基衡は基成の前任者であった藤原師綱と激しく対立し、腹心佐藤季治を打ち首にされた。そのことに懲りて基衡は国司と融和する政策を執ったと見られる。また、基成が朝廷に太いパイプを持っていたことから単なる融和策だけでなく、自分の支配体制に組み込み、一体化を図ったとみられる。基成は基衡の嗣子秀衡に娘を娶わせ、秀衡の代になると奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。歴代の陸奥守は基成の近親者が歴任し、国衙にも大きな影響力を及ぼしたと見られる。
また、基成の父の従兄弟に一条長成がいる。長成の妻は源義朝の妾であった常磐御前である。義朝と常磐の間の子義経が奥州に来たのも長成から基成に働きかけがあったものと推測されている。
秀衡の没後は外孫でもあるその子泰衡を補佐するが、文治5年(1189年)に源頼朝による奥州征伐を蒙り、頼朝の御家人である東胤頼によって三人の息子とともに降伏し捕縛された。後に釈放され帰京しているが、以後の消息は不明である。
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