藤原長実
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藤原 長実(ふじわら の ながざね、承保2年(1075年) - 長承2年8月19日(1133年9月19日))は平安時代末期の公家。藤原顕季の長男。母は藤原経平の女。
父顕季同様、白河法皇に近侍する院の近臣として立身する。因幡、尾張、伊予、播磨など諸国の受領や大宰大弐などを経て、大治5年(1130年)に権中納言に至る。さらにその死後において、娘の得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て近衛天皇の母となったことから、正一位太政大臣を追贈された。
しかし実際には、その政治手腕に対する周囲の評価は低く、権中納言就任にあたっては藤原伊通が抗議の意味で致仕しているし、1133年に死去した際には、藤原宗忠の日記『中右記』の中で「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」と非難されている。
その一方、父顕季や弟顕輔らと同様に和歌に対する造詣は深く、自邸でたびたび歌会を開催するとともに、数多くの自作を遺したことでも知られている。
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