藤原伊通
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藤原 伊通(ふじわら の これみち、寛治7年(1093年) - 長寛3年2月15日(1165年3月28日))は平安時代末期の公卿。権大納言藤原宗通(右大臣藤原俊家の子)の次男。母は六条修理大夫藤原顕季の女。同母弟に成通がある。権中納言藤原顕隆の女を妻とし、為通、伊実らの子息を儲けている。
天永3年(1122年)に参議昇進。しかし大治5年(1130年)、自身より後から参議になった藤原長実が先に中納言に昇進したことを不満として致仕する。降って三年後の長承2年(1133年)、朝政に復帰し、権中納言に進む。
関白藤原忠通に接近し、久安6年(1150年)に娘の呈子を忠通の養女として近衛天皇に入内させる。さらに天皇の母藤原得子(美福門院)や忠通らの信頼を得て発言力を強め、二条天皇期の永暦元年(1160年)には、従兄弟の藤原宗輔の後を受けて正二位太政大臣まで昇任。以後、死去の年まで五年に渡って在任し、九条に邸宅を構えていたことから「九条大相国」と呼ばれた。朝政のあり方を説いた「大槐秘抄」を著し二条天皇に献じたことでも知られ、これを受けた天皇も関白忠通とともに伊通を重用し、親政指向を強めて後白河院に対抗した。
伊通にとって、得子は(前出の長実の娘とは言え)母方の従兄弟姉妹であり、また忠通は妹の婿であった。彼の出世の背景にはこうした閨閥の力も無縁ではなかったが、その一方で自身の豊かな才覚によるところも大きく、様々な意味で同時代における第一級の宮廷人の一人と言える存在であった。その政治力もさることながら、詩歌・管絃にも秀でた文人でもあり、さらに機知に富んだ話術で常に宮中の人々を笑わせるなど、多方面において存在感を発揮した。
平治元年(1159年)の平治の乱の際には、藤原信頼が勝手に行った論功行賞で武士を厚遇するのを見て、「人を多く殺した者が恩賞に与るのであれば、どうして三条殿の井戸に官位が与えられないのか」と発言、乱の首謀者である信頼を痛烈に皮肉ったと伝えられる(信頼方の軍勢が三条殿を焼き討ちした際に、多くの女官らが井戸に飛び込んで死亡したことを揶揄したもの)。
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