蘆名盛隆
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蘆名盛隆(あしなもりたか、1561年(永禄4年) - 1584年11月8日(天正12年10月6日))は戦国時代の陸奥の大名。蘆名氏十八代当主。正室は蘆名盛興の妻(伊達晴宗の娘)。
もとは須賀川二階堂氏の二階堂盛義の子で、蘆名家の人質であったが、1575年、蘆名盛興が夭逝したために蘆名盛氏の養子に入り盛氏の死後、家督を継承する。1581年、家臣の金上盛備を上洛させて織田信長に莫大な金品を献上して誼を通じ、三浦氏の名門として認められている。このように盛隆自身は武将としての能力に優れていたが、もとは二階堂氏だったために家臣団が盛隆に対して反発するようになる。1584年、盛隆が羽黒山東光寺に参詣した隙を突いて松本太郎や栗村下総守らが反乱を起こし、黒川城を占拠したが、盛隆はこれを素早く鎮圧している。しかし同年10月、寵臣であった大庭三左衛門に黒川城内で暗殺された。
大庭三左衛門が襲った理由には諸説があるが、盛隆は過度に男色を好む人物で、そのもつれから襲われたという説が有力である。盛隆の死で、蘆名氏は衰退の道をたどる。
盛隆の死後、盛隆の未亡人が蘆名家をまとめていった。
盛隆には二人の娘があり、一人は蘆名義広の正室に、もう一人は摺上原の戦いの後、義広と共に常陸の落ち延びて、後に相馬利胤の正室となった。