伊達晴宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達 晴宗(だて はるむね、1519年(永正16年) - 1578年1月12日(天正5年12月5日))は、陸奥国の戦国大名・伊達氏第十五代当主。
[編集] 経歴
伊達稙宗の長男。正室は岩城重隆の娘・久保姫。岩城親隆・伊達輝宗・留守政景・石川昭光・国分盛重・杉目直宗の父。伊達政宗の祖父。
1542年、父の稙宗が政略的に勢力を拡大するため、弟・実元を上杉氏に養子に出そうとしたのを反対して父と対立し、父子相克の争いである天文の乱を引き起こす。この内乱は1548年まで続き、相馬氏や蘆名氏の仲介のもと、父を幽閉して伊達氏第15代を継ぐことで終結した。
しかし、内乱による伊達氏の家臣団の動揺は激しく、この統制に追われた。まず、反抗的な家臣の懸田氏を滅ぼして米沢城に本拠を移した。1553年には家臣団の所領整理などを行なって伊達氏の当主としての地位を磐石なものとしたのである。さらに父の稙宗と同じように六男五女と子供にも恵まれ、それらを岩城氏や佐竹氏、二階堂氏などに送り込んで縁戚関係を結ぶことで政治的に勢力を拡大した。これらの経緯から、1563年の室町幕府により認可された全国大名衆五十余名の中で、奥州では蘆名盛氏と晴宗だけが奥州の大名として認められるという栄誉を受けている。
1534年に交わした義父・岩城重隆との約束に従い、嫡男の親隆を重隆の養子としていたため、代わりに次男の輝宗を跡継ぎとしていたが、晩年になって輝宗との対立を深めてしまう。だが、父の稙宗の時のような内乱を避けるため、輝宗に家督を譲って隠居した。そして1577年、陸奥国信夫郡杉目城で死去した。
晩年には、杉目城で度々一門や家来衆を招いての宴会を催し、その席で孫・梵天丸(伊達政宗)が和歌を披露したという。
[編集] 系譜
- 正室:栽松院 久保姫(岩城重隆の娘)
伊達氏宗家 |
歴代当主 |
---|
平安末期~戦国末期
伊達朝宗|伊達宗村|伊達義広|伊達政依|伊達宗綱|伊達基宗|伊達行宗|伊達宗遠|伊達政宗|伊達氏宗|伊達持宗|伊達成宗|伊達尚宗|伊達稙宗|伊達晴宗|伊達輝宗 |
陸奥仙台藩主(松平陸奥守家)
伊達政宗|伊達忠宗|伊達綱宗|伊達綱村|伊達吉村|伊達宗村|伊達重村|伊達斉村|伊達周宗|伊達斉宗|伊達斉義|伊達斉邦|伊達慶邦|伊達宗基 |
明治~現在
伊達邦宗|伊達興宗|伊達貞宗|伊達泰宗 |