西岡利晃
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西岡 利晃(にしおか としあき、1976年7月25日 - )は兵庫県加古川市出身のプロボクサーで、元日本バンタム級王者。現在は世界ボクシング協会(WBA)世界スーパー・バンタム級2位、世界ボクシング評議会(WBC)世界同級3位にランクされており、現在の日本プロボクシング界で"最も世界に近い男""日本のエース"という呼び声も高い。サウスポーのボクサーファイターで、愛称は"スピードキング"。
高校時代、当時世界ランキングに名を連ねて間もない飯田覚士とスパーリングを行い、ダウンを奪ったという噂もある。
[編集] 経歴
小学校時代、卒業文集に"将来の夢はボクシングの世界王者になること"と記していたそうである。
1994年12月、地元のJM加古川ジムからプロデビュー(当時は加古川南高校3年)。初回KO勝ちを収めるも、翌1995年2月のデビュー第2戦で4回KO負け。さらに、同年12月には西日本スーパーバンタム級新人王決定戦の決勝で引き分け敗者扱い。早くも挫折を味わう。
その後、1分をはさみ9連勝し、1998年12月、日本王座初挑戦。渡辺純一を2回KOに降し、空位の日本バンタム級王座を獲得。その後、2度の防衛に成功し、王座返上。
2000年6月、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルワンプロモーション(タイ)に挑むが、挑戦者らしくない消極的なボクシングをしてしまい、12回判定で敗れ、王座奪取ならず。
世界初挑戦翌日、世界再挑戦をより現実のものとするため東京・帝拳ジムに移籍を表明し同年9月から所属。(世界戦経験有す大選手が移籍をする事は日本プロボクシング界では異例中の異例。しかも西岡の人気・実力を考慮すると数千万の移籍金が発生するのが常識だが、JM加古川ジムは無条件に移籍を許可した。)
2001年9月、ダブル世界戦メインのセレスvsロハスの前座、セミファイナルでウィラポンに再挑戦する、第4ラウンドに左カウンターが決まりウィラポンをグラつかせたりと序盤こそ試合のペースを握っていたものの、中盤から後半にかけてウィラポンのノーモーションの右ストレートが決まりだし、徐々にペースを奪われていった結果、引き分けで惜しくも王座奪取を果たせず。
その後、2002年3月にウィラポンとの3度目の対戦が組まれたものの、練習中に左足アキレス腱断裂の重傷を負い、キャンセル。実に1年以上リングから遠ざかることとなる。
2003年10月、改めてウィラポンに3度目の挑戦。この日はトリプル世界戦のメインとして試合が組まれた。この時西岡はWBC1位の指名挑戦者として対戦。しかし、試合は序盤からウィラポンペースで進み、西岡の決定打が出ないまま、試合が終わり、またしても引き分けで王座獲得ならず。
2004年3月、ウィラポンに4度目の挑戦。この日もトリプル世界戦だったが、メインどころか、タイトル戦では1番はじめに組まれていた。(ちなみにこの日は日本勢全滅)出だしはそこそこ良かったものの、3Rにウィラポンのヒッティングによる流血をしてから完全にウィラポンペースで試合が進み、12回判定で完敗した。ここでウィラポンを倒すという野望は終焉を迎える。
同年10月、スーパーバンタム級に階級を上げ、当時日本王者だった中島吉謙とのサバイバル戦で、7Rには打ち合いの末ダウンを奪う等、実力の違いを見せつけ勝利し、再起する。スーパーバンタム級に転向して5連勝し、勝っても負けても最後の世界挑戦の実現はそう遠くはないであろう。 戦績は28勝(16KO)4敗3分。
[編集] 最強王者ウィラポンとの4度の対決
西岡はウィラポンと計4度拳を交えている。初対決は2000年6月25日、地元兵庫で初挑戦。ダウンこそ無かったものの挑戦者としては相応しくない消極的なボクシングを展開、12R判定負け。ウィラポンとの力の差を痛感する。
2度目の挑戦は2001年9月1日、挫折を糧に成長を遂げた西岡は、4Rにウィラポンを左カウンターでぐらつかせる。しかし、中盤に強烈な右ストレートを浴び、出血する。この後徐々にウィラポンがペースを握っていき、更に西岡はバッティングによるカットで、両目の上をカットし(西岡自身、カットされるのは初であり、目に血が入って視界がぼやけてしまった。)、動きが鈍くなっていった。そして判定は、一人は西岡、一人はウィラポンを支持し、一人は引き分けとしており、3者3様の引き分けに終わった。
3度目の対決は2003年10月4日、アキレス腱断裂という重傷から復帰し、WBCランク1位の指名挑戦者として対戦。この試合では西岡にかつてウィラポンをダウン寸前に追い込んだ輝きはなく、挑戦者びいきともとれる判定もあって、またしても3者3様の引き分けとなった。最後の対決は2004年3月6日、3Rにウィラポンのヒッティングによる出血で完全に動きが落ちてしまった。最終12Rには、ふらふらになりながら戦っていた。大差判定でウィラポンの完勝し、この試合を最後に、西岡の因縁の対決は幕を閉じたのである。
その後、西岡の長年の野望だった打倒ウィラポンは、西岡と同じ兵庫県出身の長谷川穂積によって達成された。