親王任国
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親王任国(しんのうにんごく)とは、親王が国司に任じられた国及びその制度を指す。天長3年(826年)旧暦9月6日、清原夏野の奏上に基づき制定された。(類聚三代格:親王任国太政官符)
桓武天皇は非常に多くの皇子・皇女を残したが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。清原夏野は、これら2つの課題を解決するため、親王任国の制度を奏上した。当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。
親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の3国である。いずれも大国だった。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。
天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。
親王太守は、現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は、次官の国介(すけ)であった。平安中期になり、受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。
名目としての親王任国はその後も継続した。織田信長が「上総介」を称し、吉良義央が「上野介」を任官したのも、名目のみとは言え、「上総守」「上野守」の官職が親王のみにしか許されなかったからである。
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