談山神社
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談山神社 | |
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![]() 十三重塔 |
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所在地 | 奈良県桜井市多武峰319 |
位置 | 北緯34度27分57秒 東経135度51分42秒 |
主祭神 | 藤原鎌足公 |
社格等 | 別格官幣社・別表神社 |
創建 | 天武天皇7年(678年) |
本殿の様式 | 春日造 |
例祭 | 11月17日 |
主な神事 | 蹴鞠祭 |
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社。祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。桜と紅葉の名所である。
目次 |
[編集] 概要
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現 神廟拝所)が創建され、妙楽寺と称した(後に、談山護国寺妙楽寺と称する)。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立された。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。
仏教伽藍は現代も談山神社境内に見ることができ、登拝者も後を絶たない。明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため、独特の雰囲気を残している。かつての妙楽寺は現在、郡山久松寺へと法灯を繋いでいる。
談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に藤原鎌足の墓所といわれる陵がある。談山神社から、少しあるいたところに藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。
平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、宗派の違う興福寺とは同じ大和国の藤原氏縁の寺社仏閣でありながら仲が悪く、鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび領地などを巡り争論を繰り広げていた。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 粟原寺三重塔伏鉢(おうばらでらさんじゅうのとうふくばち)‐桜井市粟原(談山神社の北東方向)の山中に跡が残る粟原寺の遺物である。「伏鉢」とは、三重塔、五重塔などの最上部に立つ「相輪」の部材の一つ。銅製で、和銅8年(715年)の年号を含む刻銘があり、中臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)が草壁皇子のために発願したという粟原寺の由緒が書かれている。「工芸品」ではなく「考古資料」の部の国宝に指定されている。奈良国立博物館に寄託。
[編集] 重要文化財
建造物
- 十三重塔
- 権殿
- 本殿
- 拝殿
- 東透廊
- 西透廊
- 楼門
- 東宝庫
- 西宝庫
- 摂社東殿
- 神廟拝所
- 閼伽井屋
- 末社惣杜本殿
- 末社惣社拝殿
- 末社比叡神社本殿
- 摩尼輪塔
美術工芸品
- 絹本著色大威徳明王像
- 紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図 10 幅
- 短刀 銘来国俊
- 脇指 銘備州長船義景 慶安七年二月 日
- 短刀 銘成縄
- 太刀 銘吉平
- 薙刀 銘一
- 短刀 銘備中国住平忠(以下切)
- 金沃懸地平文太刀(きんいかけじひょうもんたち)
- 石燈籠
- 談山神社本殿造営図並所用具図
[編集] 外部リンク
- 談山神社(公式サイト)