邱永漢
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邱 永漢 | |
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プロフィール | |
出生 | 1924年3月28日 |
出身地 | 台湾台南市 |
職業 | 実業家、作家 |
各種表記 | |
簡体字 | |
繁体字 | 邱永漢 |
ピン音 | |
和名表記 | きゅう えいかん |
発音転記 | |
ラテン字 | Qiu Yonghan |
邱 永漢(きゅう えいかん)は、日本および台湾の実業家、作家、経済評論家、経営コンサルタント。旧本名は邱炳南、帰化後の本名は丘永漢。初期の筆名は邱炳南および丘青台。株の名人で「金儲けの神様」と呼ばれる。
1924年3月、私生児として台湾台南市に生まれる。10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人。
目次 |
[編集] 略歴
13歳のとき台北高校尋常科に入学。このころから文学に志して自ら詩を書き、個人雑誌『月来香』を発行。16歳で「台湾詩人協会」の普通会員(最年少)となり、邱炳南名義で詩作を『華麗島』創刊号に発表。台北高校の同窓に李登輝がいた。
1942年に来日。1943年10月東京大学経済学部入学。「文学部ではなく経済学部を選んだことは学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。私の文学かぶれはあまねく全校生徒に知れ渡っており、私が文学部にすすむのは当然のことと思われていたからである。私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が将来、文学を志しても生計を立てていく自信がなかったからである」(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)。しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。
1944年3月、邱の友人の冗談を真に受けた麹町憲兵隊によりスパイ容疑で逮捕されたが一週間で釈放。このころ、経済学部の定期試験で満州国の統制経済について問われ、日本の満州支配を経済学的に批判したところ、不穏思想の持ち主として退学処分になりかけたこともある。
1945年に東京大学経済学部を卒業後、東京大学大学院で財政学を研究。大学院時代に東大社会科学研究会(のちの全学連の母体)を立ち上げ、当時まだ珍しかった世論調査を実行、高く評価された。
1946年に大学院を中退して台湾に戻り、土建会社経営や中学の英語教師や銀行のシンクタンク研究員を経験。砂糖の密輸に手を出して逮捕されたこともある。
1948年に台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港に亡命。このとき、物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業を始めて成功を収めた。1950年には月収が当時の金で100万円に達し、香港で高級マンションに住まい、運転手つきの自家用車を乗り回す身分となった。このころ、友人の窮状を題材に処女作「密入国者の手記」を執筆、この作品が山岡荘八や村上元三から激賞され、1954年1月に「大衆文芸」誌で作家デビュー。
やがて事業が傾いたのを機に、娘の病気の治療と文学修行を兼ねて1954年4月より日本に移住。1954年12月、檀一雄と佐藤春夫の後押しで『濁水渓』を現代社から上梓、直木賞候補となる。1955年に小説『香港』で第34回直木賞を受賞。外国人として最初の直木賞受賞者である。
当時まだ金銭について語るのを賤視していた日本の社会風潮に抗して、みずからの経験に基づき『金銭読本』『投資家読本』など蓄財に関する実用的評論を発表して好評を博した。1960年頃には200万円の元手で株を始めて1年で5000万円に増やしたこともある。「邱永漢が薦める株は必ず上がる」と噂されたため、邱の株式評論の連載原稿を印刷前に読むべく印刷所に駆けつけてゲラ刷りを5万円で買い取った者まで現れた。しかし作家としての邱永漢は、小林秀雄ら文壇の芸術至上主義者からは徹底的に白眼視された。
1971年には、ニクソンショックによる台湾の政情変化を受けて国民党と和解。台湾政府に乞われ、経済建設を支援すべく台湾に帰って国家事業を指導。このため一部の人々から「カネ欲しさに国民党に魂を売った」と非難された。台北に今なお残る邱永漢ビルはこの時期に建てたものである。やがて事業が不振になったので再び日本に移住。第一次石油危機では大損害を蒙り、胃を壊して入院したことがある。
1980年3月、家族と共に日本国籍を取得。その直後に参議院全国区選挙に無所属で立候補したが15万票しか取れず下位落選。
1998年の香港返還を目前に、香港に移住。のち中国に移り、雲南省でコーヒー栽培事業を営んでいる。
実業家としてはドライクリーニング業・砂利採取業・ビル経営・毛生え薬の販売など多方面に活躍。東京には邱永漢経営の中国語教室も存在する。日本におけるビジネスホテル経営の元祖でもある。
大の食通としても有名。一方、長く糖尿病に苦しんでいる。
[編集] 先駆的職業
本格的実業家ではない、また芸術思考の作家でもない、新たな職業を体現した。全世界でベストセラーになった金持ち父さんのロバート・キヨサキなどもまさにその系譜をなぞるものである。出版界からはお金の神様ともてはやされたりもした。
[編集] 家族
夫人の潘苑蘭は広東生まれの中国人で料理研究家。実の姉の臼田素娥も料理研究家。素娥の娘の臼田幸世も料理研究家でNHKの「きょうの料理」などテレビの料理番組に出演。娘の邱世嬪(きゅう さいぱん、1952年 - )は占星術研究家でエッセイスト。長男の邱世悦は不動産会社を経営、次男の邱世源(きゅう せいげん、1957年 - )はビデオアーティストとして著名。
[編集] 主な著書
- 『香港・濁水渓』中央公論新社
- 『中国人と日本人』中央公論新社
- 『西遊記』〈一〉 - 〈八〉中央公論新社
- 『わが青春の台湾わが青春の香港』中央公論社
- 『邱永漢短篇小説傑作選』見えない国境線 新潮社
- 『女の国籍』 上下 実業之日本社
[編集] 外部リンク
- ハイハイQさんQさんデス(HiQ) 自身が主催するコラムサイト