李登輝
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李登輝 | |
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李登輝(右) |
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プロフィール | |
出生 | 1923年1月15日 |
出身地 | 台北州 淡水郡 三芝庄 埔坪村 |
職業 | 学者、政治家 |
各種表記 | |
簡体字 | 李登辉 |
繁体字 | 李登輝 |
ピン音 | Lǐ Dēnghuī |
和名表記 | りとうき |
発音転記 | リー・トンホイ |
ラテン字 | Lee Teng-hui |
李登輝(り とうき)は台湾の政治家・農業経済学者。前台湾総統(1988年 - 2000年)。
李登輝は蒋経国の後継者として総統に就任後、"中華民国"の民主化、本土化を推進した。"中華民国"民主化と地域化する過程の中で執政の立場から推進し、同時に経済発展に関しても大きな成果を上げている。総統職退任後は「台湾独立」を主張する「台湾団結聯盟」を中心となって結成したため「台湾独立」運動の指導者として考えられている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 少年時代
李登輝は1923年1月15日、台北州淡水郡三芝庄(現在の台北県三芝郷)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として出生した。兄は2歳年上の李登欽(日本名:岩里武則)であり、日本統治時代にフィリピンにて日本軍の作戦に参加し戦死している。このほか弟の李炳男がおり、こちらは貿易業に従事していた。
父の李金龍は警察官であり、経済的に安定した家庭環境により幼少の頃から教育環境に恵まれていた。父の転勤にしたがって李登輝は6歳から12歳までの間に汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年には淡水中学に転校している。淡水中学での李登輝は学業に専念し首席の成績で卒業、卒業後は台北高等学校に合格している。
台北高等学校に入学した李登輝は、1年次に台湾総督府が推進した皇民化運動の中で展開された改姓名運動の中、岩里政男と改名している。李登輝本人も「22歳(1945年)まで自分は日本人であった」と表明している。
[編集] 大学時代
1943年9月、台北高等学校を卒業した李登輝は同年10月、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。李登輝が農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受け、農業とマルクス経済学の密接な関係により人生の研究目標としたと述べている。
しかし戦争が激しさを増すと大学では文科系学生は学徒出陣により戦地に送られるようになる。この時期の李登輝は日々深刻になる食料不足問題に悩みながらも、自ら「農業簿記」を学び、同時に河上肇やマルクスの社会主義関連の書籍に親しんでいた。学徒出陣に召集された1944年に台湾に一時帰って基礎訓練を終えた李登輝は、日本に戻り千葉高射砲部隊の見習士官に任命され、その地で終戦を迎えた。
1945年に日本の終戦を迎えた後、1946年春に台湾に帰国、国立台湾大学(台大)に入学した。台湾に帰国後間もなく、中国共産党台北市工作委員会書記の呉克泰の要請を受け、李登輝は共産党に入党[要出典]、1946年9月に入党が認められている[要出典]。入党後は積極的に地下活動に参加し、1949年1月には沈崇事件にも参加している[要出典]。
1949年、台大農経学科を卒業した李登輝は大学の講師として採用された。この時期淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合いにより結婚している。
[編集] 共産党時代[要出典]
1947年9月、李登輝は共産党を離党する。このとき李登輝は共産党活動に関する秘密を口外せず、共産党側もまた李登輝の経歴を秘密にするという“紳士協定”を交わした。離党してもなおマルクス主義の影響を受けた李登輝は、新民主同志会という地下共産党関連団体に参加し、『新民主主義論』や『論人民民主専政(人民民主専政を論ず)』などの左派書籍の研究を行っている。この期間李登輝は再び共産党に入党し、1948年に再び離党している。
共産党に入党していたため中国国民党入党後に長期に亘る審査を受け、更に監視も受けた。また李登輝の紹介により共産党に入党した葉城松が李登輝の離党後に叛乱罪により逮捕、死刑判決を受ける事件もあり、共産党側からは李登輝が当初の守秘義務を守らず裏切ったのではないかと疑惑を抱かれることにもなった。
[編集] アメリカ留学
当初は日本教育の影響を強く受けた李登輝であるが、1952年からのアメリカ留学により、アメリカの文化とキリスト教の影響を受けその学識は完成されていく。1950年に長男李憲文をもうけた李登輝は、2年後中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学に於いて農業経済を研究した。1953年に修士学位を獲得して中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼経済分析課長に就任する傍ら、台大講師として勤務することになった。
その後合作金庫、中国農業復興聯合委員会(略称:農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。その中1960年には治安当局により逮捕され、4ヶ月にわたり拘束される事件が発生するが、農復会の責任者である沈宗瀚が蒋彦士に治安当局との交渉に当たらせ、結果無罪が証明され李登輝は釈放された。
1965年、李登輝はロックフォード農業経済協会及びコーネル大学奨学金を得て、コーネル大学に留学、農業経済を専攻する。1968年、農業経済学博士号を獲得、博士論文である Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 はアメリカ農学会により優秀賞を獲得し、1971年コーネル大学出版社により出版されている。博士号を獲得した李登輝は1968年に中華民国に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任している。
[編集] 政界進出
1969年6月、警備総部の取調べを受けた。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。1970年、国連開発計画の招待によりバンコクで農業問題の後援を依頼されたが、同年4月に当時行政院副院長の役職にあった蒋介石の息子・蒋経国の暗殺未遂事件が発生し、李登輝はこのときの狙撃犯黄文雄 (政治家)とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で李登輝の出国を認めなかった。
この時期農復会の上司であった沈宗瀚は、農業専門家として1971年8月に蒋経国の知遇を得ることになった。そして蒋経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党している。入党後の李登輝は、蒋経国が行政院長に就任すると無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時僅か49歳であり、当時最年少での入閣であった。それから6年間、農業専門の行政院政務委員として活躍した。
その後1978年、蒋経国により台北市長に任命され、1981年には台湾省主席に任命される。市長時代は「台北芸術祭」に力を入れ、また台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行い、省主席時代には「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。
1984年、蒋経国により李登輝は副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。
[編集] 総統時代
1988年1月13日、蒋経国の死去に伴い李登輝は総統職を継承する。その後、台湾では民主化運動が活発化し、中華民国国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と民選化を求める声が強まった。
1990年1月、政府は政治改革に着手し、国民大会では万年議員の自主退職条例を可決された。しかし、3月に任期が切れる李登輝の再選をネタに、高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から「三月学運」が発生した。総統再任後、李登輝は学生運動の代表者や黄信介民進党主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への努力を約束した。6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。国是会議の議論に基づいて、1991年5月に動員戡乱時期臨時条款を廃止し、初めて中華民国憲法を改正し、民意代表機関の改選を実施した。
1992年に「万年国会」問題を解決した李登輝は、その後1994年に台湾省、台北市、高雄市での首長選挙を実施、続いて総統の直接選挙の実現に向けて行動する。総統選挙方式では国民党はアメリカ方式の代理人による選挙草案を提出するが、李登輝は直接選挙を主張、1993年に国民党の主流派を抑えた李登輝は、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することを決定し、同時に総統の「1期4年、連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。
両岸問題では中華民国国家元首、国民党主席の立場から李登輝は三民主義に立脚した中国統一政策を標榜した。1991年、李登輝は国家統一委員会に於いて『国家統一綱領』を策定、中華民国は中国の一部であり、中国大陸もまた中国の一部と表明した。しかし場合によっては中華民国独立を意識した発言も行なっている。
1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、初めての民選総統として第9期総統に就任した。この選挙に際して中華人民共和国は"中華民国"台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて海峡九六一と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験を行い、アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中華人民共和国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まり、これが「台湾人」のアイデンティティーを触発して李登輝の再選を実現したとの分析もある。
総統に再選された李登輝は両岸関係に対する態度に変化を来たし、"中華民国"台湾独立の政治的立場を強めていく。1999年、ドイチェ・ヴェレのインタビューの中で両岸関係は「特殊な国と国の関係」と述べ、ここに両国論を展開することとなった。
2000年の総統選では、李登輝は連戦、蕭万長の選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民主進歩党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより李登輝は"中華民国"台湾に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは李登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任している。
[編集] 総統引退後
総統職を退いた李登輝は「台湾独立」の立場を明確にした。「"中華民国"は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに"正名"を定めるべき」との台湾正名運動を展開し、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結聯盟」を結成した。形式上では既に政界を引退しているものの、独立運動の精神的な指導者と目されるようになる。これを受け同年9月21日国民党中央考核紀律委員会は、反党行為を理由に李登輝に対する党籍剥奪の処分を決定した。
その後も"中華民国"台湾も領有権を主張する尖閣諸島(中国語名:釣魚台列嶼)を「沖縄県に属する日本固有の領土」と表明し内外に波紋を巻き起こすなど、独自の政治立場を主張している。
2007年1月には、メディアのインタビューを受けた際に、"私は台湾独立とは一度も言ったことがない"と発言して、転向かとメディアに騒がれる出来事もあったが、インタビュー本文には「台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない」と発言したことが明記されており、メディアの歪曲報道とされている。
[編集] 評価
李登輝は異なる時代に異なる地位で異なる政治主張を行なったため、その政治的評価は現在も定まっていない。
李登輝の"中華民国"台湾総統在任期間中(1988年-2000年)に総統及び副総統、台湾省長、台北市長、高雄市長選挙を住民の直接選挙とし、憲政及び国会で多くの改革を行い"中華民国"台湾の民主化を促進した点については"中華民国"台湾内外で概ね好意的な評価を受けている。しかしその政局運営では国民党の権力構造を改革するため地方分権を急速に実施した結果、企業や黒社会との癒着が進み「黒金政治」と称される金権政治腐敗問題を発生させた。そのため李登輝及びその周辺に対し1990年代の金権政治体質による政治風紀の乱れの責任を問う声もあるが、これらは李登輝が情報公開を推進した結果、それまで隠蔽されていた社会矛盾が暴露されたに過ぎないとの見解も存在している。
「台湾独立運動」に関する評価では両極に分化している。台湾独立派は李登輝は伝統的な中国の概念と思想、そして文化体系より離脱し独立路線を採用したものとして好意的な評価を下している。事実総統任期中、"中華民国"台湾の本土化運動を推進し、伝統的な盟友であるアメリカや日本との強固な連携を確立し、退任後の台湾独立運動推進の基本路線を確定したと相当に高い評価を受け、国民党から除名された後も中華民国政局・台湾独立運動の主要な精神的指導者とし確固たる影響力を有している。
また総統就任期間はアメリカ訪問の機会を探り、国際社会の中で"中華民国"台湾の外交(国交樹立)拡大の可能性を模索し、両国論の主張は「一つの中国政策」を堅持する中華人民共和国政府の強烈な反発を招いた。退任後に台湾独立を明言すると中華人民共和国政府とその影響下の中華人民共和国国民、海外華僑の強い反発を受けている。また台湾国内でも泛藍と称される中華統一派からも政治主張の違いから否定的な評価を受けることとなった。
李登輝は当初日本教育を受けていたため、その発言の中に日本に対する好意が見られ、また"中華民国"台湾公人でありながら自らを「半日本人」と称するなどその親日的な態度は顕著である。そのため靖国神社問題や尖閣諸島問題では日本寄りの発言をし、これに対し"中華民国"台湾の公人が過度な親日的な態度を表明することに対して強く反発する勢力も存在する。
これらの評価は現在の政治問題と密接に関連しており、その歴史的評価が定まるまでにはなお時間を要する。
[編集] 略歴
- 1923年(大正12年、民国12年)1月15日、当時の台北県三芝郷埔坪村に生まれた(日本名:岩里 政男)。父、李金龍は警察官。母、江錦。一つ上の兄、李登欽(日本名:岩里 武則)。
- 1929年 - 淡水公学校入学。
- 1935年 - 淡水公学校尋常科卒業。
- 1936年 - 淡水中学入学。
- 1940年 - 台北高等学校入学。
- 1943年 - 京都帝国大学農学部農林経済学科に入学。のち、学徒出陣。終戦時の階級は陸軍少尉。
- 1945年 - 2月15日兄の李登欽、ルソン島マニラ市のマニラ湾において戦死。享年24。大日本帝国軍人として靖國神社に祀られる。
- 1946年 - 戦後は台湾島に帰って国立台湾大学に編入し学業を継続した。
- 1947年 - 共産分子として検挙される。
- 1947年 - 敬虔なクリスチャンの曽文恵と結婚。夫人とともに台北の教会めぐり。後に一男をもうけるが、癌により早世される。
- 1947年 - 国民党による台湾人に対する弾圧二二八事件が発生するが、難を逃れる。
- 1949年 - 農業経済学学士の学位を取得し、母校にとどまって助教を担任した。
- 1950年 - キリストの救いを受け新生を体験し、バプテスマを受け敬虔なクリスチャンになる。
- 1951年 - 中米基金の奨学金を受けアメリカのアイオワ州立大学で農業経済学を研究する。
- 1953年 - アイオワ州立大学より農業経済学の修士号を取得。帰国後、国立台湾大学で教鞭をとるかたわら、台湾省農林庁および台湾省合作金庫の研究員を兼務した。
- 1960年 - 要注意人物として情報当局に逮捕。
- 1968年 - 「台湾の経済開発におけるセクター間の資本の流れ」でアメリカのコーネル大学より農業経済学の博士号を取得して帰国。同論文は全米最優秀農業経済学賞を受けた。
- 1970年 - 国連よりタイのバンコクでの講演依頼をうけるが、要注意人物のため出国できず。
- 1971年 - 蒋経国に認められ国民党入党。
- 1972年 - 行政院政務委員に就任。
- 1978年 - 台北市長に就任(当初行政院政務委員兼務)。水不足問題の解決等に尽力する。
- 1981年 - 台湾省政府主席に就任。
- 1984年 - 副総統に就任。
- 1988年 - 1月13日、蒋経国総統の死去により総統を継承。
- 1995年 - 総統就任後初渡米し、母校コーネル大学で講演。
- 1996年 - "中華民国"台湾史上初の総統直接選挙を実施し、圧勝。
- 1999年 - 一つの中国政策についてドイツの放送局によるインタビューに答え、「中国と台湾の関係は特殊な国と国との関係」であると定義し、中国共産党から強い反発を受ける。『台湾の主張』で山本七平賞を受賞。
- 2000年 - 自身の後継者として推薦していた国民党の連戦候補の惨敗の責任を取り、国民党主席を辞任。同時に連戦との確執が発生し、国民党を離党。
- 2001年 - 4月、心臓病治療のため来日。岡山県倉敷市などを訪れた。12月、日本李登輝友の会が設立され、東京のホテルオークラで設立総会。李もインターネットを通じて講演を行った。
- 2002年 - 中間選挙で陳水扁総統を側面支援することを目的として、台湾団結連盟を立ち上げ、精神的指導者となる。選挙運動中の演説で「もはや中華民国は存在しない」と断じ、「台湾独立」への意思を鮮明にする。10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」の招きで来日する意向が伝えられた。同サークルが慶應大の学園祭「三田祭」において開催する講演会で講演する予定だった。当初、来日は問題なく実現するかにみられたが11月、日本政府は李登輝が求めたビザの発給を拒否。訪日と講演は幻に終わった。背景には中華人民共和国政府からの圧力や、中華人民共和国政府の意を汲んだ日本政府内の親中華人民共和国分子や大学当局内の親中華人民共和国分子画策があったとされる[1]。講演予定だった内容は、11月19日付け産経新聞朝刊で「日本人の精神」として全文が掲載され、反響を呼んだ。
- 2003年 - 12月12日、中央大学の学生主催のインターネット講演会で日本人向けの講演を行った。
- 2004年 - 12月27日、観光旅行のため曽文恵夫人や長男(故人)の嫁、孫娘の李坤儀らを伴い3年8ヶ月ぶりに訪日。李の来日を巡っては、中華人民共和国がビザ発給の撤回を要求するなど激しく反発した。
[編集] 来日をめぐる騒動
総統職から離れた後も台湾独立派に極めて重要な影響力を持つとされ、特に「一つの中国」を国是とする中華人民共和国政府は「台湾独立勢力の象徴的人物」として危険視している。李登輝の来日の希望が取りざたされるたびに、中華人民共和国政府は日本政府に対して、ビザを発給しないよう要求するなど外交問題化する。
2001年4月、持病の心臓病治療のために来日。人道的な措置としてビザ発給。この騒動を主な契機として日本李登輝友の会が設立される。
2004年12月から翌年1月にかけて私的な旅行として来日([2])。私人に対するビザを断る理由はないとしてビザが発給された。ただし、政治的行動をしないなどの条件を日本政府は求めたとされる。李は名古屋市、金沢市、京都市を訪れた。京都では母校である京都帝国大学(現京都大学)時代の恩師である柏祐賢・京大名誉教授と再会を果たしたほか、京大にも訪れたが時計台のある本部キャンパスの敷地へ入ることはできなかった。
[編集] 主な著書
- 愛と信仰-わが心の内なるメッセージ(早稲田出版)
- 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
- 台湾の主張
- 李登輝学校の教え(共著:小林よしのり)
- これからのアジア(共著:加瀬英明)
- アジアの知略―日本は歴史と未来に自信を持て(共著:中嶋嶺雄)
[編集] 関連人物
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 台湾の政治家 | 中華民国 | 1923年生