小林秀雄 (批評家)
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小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年4月11日 - 1983年3月1日)は、文芸評論家。
東京市神田区(東京都千代田区)生まれ。『のらくろ』の作者田河水泡は義弟。白洲次郎・正子夫妻とは、双方の子息が夫婦であり、血縁に当たる。
東京府立一中116名中75番で卒業、その後一高を経て、東京大学文学部仏文科卒業。日本における文芸批評を確立した人物であり、評論の神様とも呼ばれ、昭和の文壇をリードし、多数の文芸評論家に影響を与えた。1932年から1946年まで、明治大学で教鞭を執る。
一高時代に野球部に属するも、スポーツ音痴であると悟り、文学方面に転向した。大岡昇平、中原中也、青山二郎、白洲正子などと交流があった。隆慶一郎は弟子。
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[編集] 特徴
芸術的かつ逆説的で力強い叙述で知られ、小林以後の文芸批評に感覚的・飛躍的な表現を主流にした。そのため、最近では日本の文芸批評の非論理性の源流を小林に認める向きもいくらかある。元来、小説家を志しており、特に初期の文芸批評は、小説とみなされることもある。文学的な評論に留まらず、西洋絵画等の評論、翻訳も手がけ、その内容にも定評がある。文化勲章受賞。
評論の筆先の鋭さのみならず、口喧嘩(屁理屈を含む)の強さにも定評があり「大人が号泣するまで追いつめる」「言葉が通じない米兵を泣かせたことがある」などの逸話も数多く残っている。
三島由紀夫は著書『文章読本』の中で小林を「日本における批評の文章を樹立した天才」として同じく評論家の中村光夫とともに絶賛している。
その「論理的」な文章は、数多くの大学入試問題に採用され、難問は受験生を苦しめた。
[編集] 経歴
1929年、雑誌『改造』の懸賞論文で、文壇の諸々の様相を批評した『様々なる意匠』が二席に入賞。なお1位は宮本顕治『「敗北」の文学』であった。宮本は、小林の死にあたって談話を発表し、その中で鎌倉の文化財保護に小林の果たした役割を高く評価した。
『アシルと亀の子』などの文芸時評で地位を確立。プロレタリア文学などの観念性、私(わたくし)小説などの脆弱さを激しく批判、近代日本文学の再検討に向かった。
1933年、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文学界』を創刊、『ドストエフスキーの生活』を連載。このころ『私小説論』を発表。
太平洋戦争勃発のころから古典芸術、音楽、造形美術、歴史の世界に没頭、それらは戦後、『無常といふ事』『モオツアルト』(いずれも1946年)にまとめられた。
『ゴッホの手紙』、さらにドストエフスキー作品集などで芸術家の創作活動を探求、外遊後『近代絵画』を刊行。また日本文学の伝統を考察。1977年『本居宣長』を完成した。
批評を独立した文学に高め、各方面に影響を与えた。1967年文化勲章。
[編集] 小林の戦争プロパガンダ
戦前、小林は国粋主義者である大川周明を称賛する文章を書いた。1937年11月、小林は『改造』誌上で『戦争について』と呼ばれるエッセイを発表し、その中で「天皇の臣民としての義務が何よりも優先する」と主張し、日中戦争に反対する人々を強い調子で批判した。小林によれば、戦争とは自然災害のようなもので、人間によってコントロールできないものである。そのため、台風をやりすごすのと同じように戦争は正しいか正しくないかにかかわらず勝たねばならないというのであった。
小林は戦時中、6回にわたって中国を訪問している。最初の訪問は1938年3月で、日本軍から文藝春秋の特派員として招聘され、当時日本軍が占領していた中国東北部をまわった。1940年になると小林は、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか 52名の小説家とともに日本国内、韓国および満州国を訪問した。
戦後、小林は日本軍に協力したことにより左翼から広範な攻撃を受けた。しかし当時の GHQ は小林を戦犯として告発することはなく、公の場から追放することもしなかった。すぐれた文芸批評家であるという小林の戦時中からの名声は以後もそのまま保たれている。
[編集] 主な著作
- 『様々なる意匠』
- 『志賀直哉』
- 『私小説論』
- 『ドストエフスキイの生活』
- 『無常といふ事』
- 『モオツァルト』
- 『考へるヒント』
- 『本居宣長』
- 『近代絵画』
[編集] 主な翻訳
- ポール・ヴァレリー『テスト氏』
- アルチュール・ランボー『地獄の季節』