李容洙
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李 容洙(イ ヨンス、Yi Yong-Su, Lee Yong-soo)は従軍慰安婦として各地で証言している人。
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[編集] 略歴
「証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993」での本人の証言をもとに列記する。
- 1928年12月韓国の大邱(テグ)生まれ。
- 1944年秋(満16才)貧乏な様子におばさんから働けと勧められ、「軍服みたいな服を着た男」(国民服に戦闘帽の男の日本人)に服と靴で釣られて働けるものとついて行った。大連から船に乗った。
- 1945年(17才)新暦の正月、爆撃下の船上で強姦される。台湾の新竹に到着したが股に腫れ物ができて血がべったりついていて歩けない。嫌だと言うと慰安所の経営者に電話線のコード巻き付けられ拷問された。トシコという名で主に特攻隊の相手をした、ある人は自分から性病を移された「その病気を私からの贈り物だと思って行く」と歌を詠んでくれた。
幹候(幹部候補生)離陸よ、新竹はなれ 金波、銀波の雲のりこえて 連れだって見送る人もなけりゃ 泣いてくれるのはトシコひとり
- 1945年8月(17才)朝鮮人の人が終戦だと教えてくれた、経営者はもう逃げていなかった。埠頭にある収容所に行った。麦が青い目を出す頃(11月頃)家に帰った。
- 現在はナヌムの家に住む。
[編集] 証言履歴
- 女性国際戦犯法廷にて慰安婦として金君子らと共に証言。
- 2004年12月3日、岡崎トミ子の紹介で細田博之官房長官と面談。
- 2007年2月15日、マイク・ホンダ提案の慰安婦法案に関連してアメリカ下院公聴会にて慰安婦として金君子、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言。
[編集] 証言の内容と信頼性について
- 「日本軍によってトシコと名付けられた李さんは、性行為を拒否して電気拷問を受け、韓国語を話す度にひどく殴られた」とされるがこのような電気器具を用いた拷問器具を日本軍は所持していなかった。(拷問をしたのは経営者であり、電気コードを巻き付けて電気を流しただけの簡単なもので証言の信頼性を損なうようなものではない)
- 女学校で日本の歌を歌わず、警察に大連に送られ、大連から海路上海を経て台湾の慰安所へ。航行中ひどい船酔いに苦しみ、便所へ吐きに行ったら日本兵に犯された。友だちも同じようにして犯された。船中で何度も同じ目にあった。16歳からの3年間、敗戦の日まで慰安所に監禁された。軍人を相手にすることを拒んで電気拷問を受け、今も両手に後遺症が残る。証言通りだと1944年から1946または1947年までとなり敗戦の日との辻褄が会わないと言う疑問が提示されている。(証言を詳しく聞けば慰安婦をしていたのは6ヶ月程度である)
- ソウル大学の安秉直教授は慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいた事を記し、この調査での19人についてはそうした事はなく証言の信頼性が高いことを以下のように書いている[1]。
- 『調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。』
- ^ 証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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