鈴木淳司
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生年月日 | 1958年4月7日 |
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出生地 | 愛知県 |
出身校 | 早稲田大学法学部卒 松下政経塾塾生 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 愛知県瀬戸市議会議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆議院議員 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
愛知7区 |
当選回数 | 2回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(町村派) |
党役職(現在) | 自由民主党女性局次長 |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館408号室 |
ウェブサイト | [1] |
鈴木淳司(すずき じゅんじ、1958年4月7日 - )は、日本の政治家。 自由民主党所属の衆議院議員。愛知県瀬戸市(陶原町)出身。愛知県7区選出。
陶原小・水無瀬中・千種高校を経て早稲田大学法学部を卒業後、松下幸之助が創設した(財)松下政経塾に第3期生として入塾した。同期生には樽床伸二・松沢成文らがいる。
1985年国際ロータリー財団・研究グループ交換メンバーに選ばれ、イタリア派遣。
1987年松下政経塾卒塾。愛知県瀬戸市議会議員選挙に立候補を検討したが、踏ん切りがつかず立候補を見送る。日中青少年交流協会派遣訪中団団長として訪中。
1991年愛知県瀬戸市議会議員選挙に立候補し、初当選。2期8年間、総務・環境経済・建設水道各常任委員長、瀬戸市監査委員等を歴任。定例議会ごとに壇上質問に立つことを心がけ、所属党派を越えた議員の勉強会を催した。また、瀬戸市の姉妹都市である中華人民共和国景徳鎮市などとの国際交流にも取り組んだ。特に景徳鎮市との交流では、相互訪問の費用を瀬戸市が全面的に負担し、瀬戸市の持つ陶磁器生産技術が景徳鎮市に提供されるという一方的なものであったが、瀬戸市側の努力が景徳鎮市に認められ、両市の友好が深まることになる。瀬戸市は景徳鎮市を皮切りにフランス、チュニジア、韓国等の陶磁器生産地と友好提携し積極的に技術供与を行うようになるが、景徳鎮市との友好提携はその嚆矢であった。
1999年市議会議員選挙には出馬せず国政を目指しての活動に入る。
2000年自由民主党愛知県第7選挙区支部長に就任。同年の第42回総選挙に愛知7区より自由民主党公認で出馬するも民主党の小林憲司に敗れ、比例区でも落選。この選挙の直前に保守党から青山丘が自民党に入党し、鈴木が小選挙区青山が比例区で立候補するというコスタリカ協定が結ばれていた。鈴木の落選にもかかわらず、清和会の後押しや地元の地方議員たちが鈴木を熱烈に支持し党本部へ談判に及んだこともあってコスタリカ協定は存続し、青山が第7選挙区支部長となったことを受けて、自民党愛知県衆議院比例区第5支部長となる。
2001年友好都市提携5周年を期して派遣された瀬戸市市民代表団の一員として、中華人民共和国・景徳鎮市を訪問。両市の友好提携を再確認したという。(中国に対する土下座外交だとの非難もされている)
2003年自民党衆議院比例区第五支部党員2000名の新規登録を達成する。この功績により同年の第43回衆議院選挙では比例名簿単独3位に登載され初当選。
2005年第44回衆議院選挙では愛知7区から立候補したが、コスタリカ協定を結んでいた青山が新党日本に参加したため支持層が分裂。当初は苦戦も予想されたが、重点候補として自民党と清和会に加え公明党と創価学会の全面支援を受け、民主党の小林憲司を僅差で破って選挙区ではじめての当選を果たした。なお、青山はその後新党日本から国民新党に移籍して参議院比例区第1支部長になり、小林は覚せい剤取締法違反で逮捕され有罪判決を受け、いずれも愛知7区では事実上政治生命を失うこととなった。
現在2期目。 平成15年現在、衆議院外務委員会委員、衆議院環境委員会委員、自民党青年局次長等の要職にある。
初当選直後から自民党愛知県連が主催する愛知政治大学院(学長は杉浦正健)において副学長をつとめており、屈指の政策通として若手からの人望も厚い。 また、中央政界入り以前から中国との友好運動を積極的に推進してきた経緯もあり、中国に対する強硬派が目立つ松下政経塾出身者・若手保守系政治家の中にあっては珍しい親中派である。 2004年の参議院議員選挙から、尾身朝子を熱心に支持している。
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