長尾景英
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長尾 景英(ながお かげひで、文明11年(1479年)-大永7年12月5日(1527年12月27日))は、戦国時代初期の山内上杉家家臣。白井長尾氏の長尾景春の末子。母は長尾定景あるいは長尾景人の娘とされる。官途名は右衛門尉。
父とともに主君である上杉顕定と戦うが、本拠地である上野国白井城が奪還されると、あくまでも顕定に対抗しようとする父と対立した。その後顕定が戦死すると、景春は顕定の養子の上杉憲房とも戦うが、逆に景英は憲房に対して同じ顕定の養子であった上杉顕実から関東管領の地位を奪うように勧めた(永正の乱)。このために親子の対立が激化して景春は出奔し、逆に景英は憲房を援けて顕実追放に功を挙げたとして、憲房によって白井長尾氏の当主に立てられた。