長尾景春
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長尾景春(ながおかげはる)
[編集] 長尾景春 (白井長尾氏)
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時代 | 室町時代から戦国時代前期 | |||
生誕 | 嘉吉3年(1443年) | |||
死没 | 永正11年(1514年)8月 | |||
別名 | 孫四郎(幼名) | |||
諡号 | 伊玄 | |||
戒名 | 涼峯院大雄伊玄 | |||
氏族 | 長尾氏 | |||
父母 | 父:長尾景信、母:長尾頼景の娘 | |||
子 | 長尾景英 |
長尾 景春(ながお かげはる)は、戦国時代の武将。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。左衛門尉。
嘉吉3年(1443年)、長尾景信の子として生まれる。上杉謙信の一族の中に同姓同名の景信がいるが、この景信は上杉憲実に家宰として仕えた長尾景仲の子で、景春はその孫に当たる。ちなみにこの長尾氏は上杉謙信で有名な越後長尾氏とは同族の別流である白井長尾氏系統である。
文明5年(1473年)に父が死去すると、その家督並びに上杉顕定の家宰の地位は長尾忠景(景信の弟で景春の叔父)が継ぐこととなった。本来なら後継者だったはずの景春はこれに対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになり、文明7年(1475年)に武蔵鉢形城に立て籠もり、翌年6月には反乱を起こして、顕定軍を五十子において大いに打ち破った。さらに文明9年(1477年)1月にも顕定軍を大いに破って、遂に顕定の勢力を上野国にまで放逐することに成功したのである。また、上杉氏と敵対する千葉孝胤・那須明資・成田自耕斎と同盟を結んだ。
しかしこのような状況を見た扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が武蔵に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる(ちなみに道灌の母は景春の叔母にあたる)。景春も善戦したが、名将・道灌の敵ではなく各地で敗れて景春の勢威は衰退する。このため景春は古河公方の足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けた。しかし文明10年(1478年)、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と古河公方との間で和議が成立すると、景春は後ろ盾を失ってしまい、結果として道灌に攻められて鉢形城は落城し、景春は武蔵を追われてしまったのである。(長尾景春の乱)
しかし道灌がやがて横死すると、古河公方の元にいた景春は道灌を討った後に顕定に攻められていた上杉定正に加担して相模国に入り顕定と戦う(長享の乱)。永正2年(1505年)には、上野国に戻って白井城に入った。しかし上杉憲房(顕定の養子)に攻められて白井城は落城し、景春は柏原城に逃亡してなおも顕定と対抗しようとする。ところがその顕定は永正6年(1509年)、長尾為景(謙信の父)と戦って戦死してしまった。これを好機ととらえた景春は、白井城で敗軍をまとめていた憲房を攻めて白井城を奪還してしまったのである。そしてその後は小田原で自立していた戦国大名・北条早雲と同盟を結んで、憲房とあくまで対抗した。ただし、晩年はあくまでも自立を目指す景春と憲房と和睦して上杉顕実を倒そうとする嫡子の景英が対立して景英によって城主の地位を奪われたとする説もある。
永正11年(1514年)8月(異説として9月)に死去。享年72。後を嫡子の景英が継いだ。
景春は北条早雲と並ぶ、戦国時代前期の関東の奸雄と言ってもよい。景春が1476年から数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることにつながったからである。なお、早雲は景春のことを「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。