長谷川龍生
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長谷川龍生(はせがわ りゅうせい、本名 名谷龍生 1928年(昭和3年)6月19日 - )は、日本の詩人。大阪文学学校校長。
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[編集] 作風
個人の内部にある素朴な意識的世界を即物的に表すことのできる異色の詩人として40年代後期から活躍。その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は徹底しており、その点での変化は半世紀以上全くみられない。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。本人、自らを称して曰く「現場主義の詩人」。
[編集] 人物
大阪市船場出身。七人兄姉(五男二女。兄四人は夭折)の末っ子として誕生。旧制大阪府立天王寺中学校(現・天王寺高等学校)卒業(2学年下には作家の開高健がおり、開高の妻で詩人の牧羊子共々、生涯を通じて交流があった)。
幼少の頃より失語症に陥るが、母の死、父の失踪などを経て非常に多感な青春時代を過ごす。また、異常な読書家で、小学校を卒業する頃には夏目漱石全集などをすでに読破していたという。得意科目は数学。国語の成績は決して良くなかった。
15歳頃から創作を始め、当初は小説家を志して作家の藤沢桓夫(ふじさわ・たけお)のもとへ弟子入りを試みるが、藤沢から「きみは詩のほうに向いている」と詩作を薦められ、そこで後に絶大な影響を受けることになる詩人の小野十三郎を紹介される。
その後、病身・貧窮など困難にあたりながらも勉学を続けたが、大学進学は断念。全国各地をくまなく巡る、放浪の旅に出る。
1948年浜田知章の個人雑誌「山河」に参加。その後50年「新日本文学会」に入会、52年には関根弘、菅原克己、黒田喜夫らの同人誌「列島」に参加、58年には鮎川信夫、関根弘らの「現代詩」にて編集長を務める。また、60年には安部公房らと「記録芸術の会」を結成、詩人に留まらず多くの芸術家と交流を持った。この頃、安部公房に新宿の中華料理店に倉橋由美子と共に招かれ、ここで後に安部の傑作『砂の女』のモチーフとなる話をした。
63年の冬から翌年の初春にかけて、日ソの作家交流を兼ねて初めての海外旅行でソ連各地(モスクワ、レニングラード、カリーニングラード、リガ、ミンスクなど)に3ヶ月ほど滞在。この旅がきっかけでその後、世界各国を旅行(長谷川はこれを「遊行」という言葉をもって示す)するようになり、この頃から長谷川の作品の傾向は、急激に世界へと視線が注がれていくようになった。
詩人としてのみならず、57年の処女作『パウロウの鶴』一作をもって電通専属のコピーライターに抜擢され、働いていたこともある。また、現・東急エージェンシーの広告企画部長としても幅広く活躍した。とりわけコピーライティングにはその抜群のセンスが発揮された(クリスマス当日の新聞における「今日のサンタはパパだった」など)。
70年大阪万博では、サミー・デイヴィスJr.、マレーネ・ディートリッヒ、スヴャトスラフ・リヒテルなど、外国人ゲストのコーディネーターを務め、成功を収める。
その後、万博の終幕と共に会社を終われ、詩作に集中するようになるが、書き上げる詩は「(早くも戦後詩集の代表作ともなった)『パウロウの鶴』の自己模倣に過ぎない(飯島耕一)」と指摘されることもあり、指南の日々が続いた。
78年の『詩的生活』では、第9回高見順賞を受賞。その後、旅行時に世話になったあるフランス人女性をモデルにした『バルバラの夏』や、自身の怪奇体験をもとにした『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』などで、よりドラマティックな傾向を強めると共に、『知と愛と』、『泪が零れている時のあいだは』などでは、人間の単純な精神志向を強く描き出していった。
02年には、13年の沈黙を破って『立眠』を刊行。その磨き抜かれた批評によって保たれる詩的世界はもはやどの詩人をしても手の届くものではなく、これをもって「現在における日本詩人の最高峰に立つ(平林敏彦)」と評価されている。
06年現在も、詩作はもちろん全国各地での講演会を続けており、現代詩塾の講師としても活躍している。その巧みな話術と、どこを探しても他にはない独特の魅力にファンも多い。近年、小説家としてデビューするという話もある。
[編集] 著作
- 『パウロウの鶴』(1957年 書肆ユリイカ)
- 『虎』(1960年 飯塚書店)
- 『長谷川龍生詩集』(1967年 思潮社)
- 『現代詩論6』(1972年 晶文社 片桐ユズルとの共著)
- 『泉という駅』(1975年 サンリオ出版)
- 『直感の抱擁』(1976年 思潮社)
- 『詩的生活』(1978年 思潮社 高見順賞受賞)
- 『バルバラの夏』(1980年 青土社)
- 『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』(1982年 造形社 画・赤瀬川原平)
- 『知と愛と』(1986年 思潮社)
- 『マドンナ・ブルーに席をあけて』(1989年 思潮社)
- 『泪が零れている時のあいだは』(1989年 思潮社)
- 『立眠』(2002年 思潮社)
[編集] 関連人物
- 堤清二(友人)
- 田辺聖子(大阪文学学校の元生徒)
- 開高健(中学の後輩、友人)
- 高見順(第9回高見順賞受賞)
- 安部公房(安部デビュー前からの友人)
- 中島らも(長谷川の怪奇体験話を通じての知人)
- 赤瀬川原平(『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』のイラストを担当)
- 谷川俊太郎(『虎』のあとがきで「わたしには長谷川龍生の70%以上分からないという自信がある」と発言)
- 高浜虚子(本人曰く「20歳くらいの頃、一緒に散歩をしたことがある」とのこと)
- ジャン・ジュネ(自主企画の番組でインタビューを試み成功)
- フランソワーズ・サガン(自主企画の番組でインタビューを試み成功)
[編集] 関連リンク
[1]大阪文学学校HPより