長野業正
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長野 業正(ながの なりまさ)は、戦国時代の武将。上野国箕輪城主。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 延徳3年(1491年) | |||
死没 | 永禄4年11月22日(1561年12月28日) (6月21日(8月2日)とも) |
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別名 | 業政(別名) | |||
官位 | 信濃守 | |||
諡号 | 一盛斎 | |||
氏族 | 上野長野氏 | |||
父母 | 父:長野憲業 | |||
子 | 長野業盛、長野正宣、長野業朝ほか |
[編集] 生涯
延徳3年(1491年)、長野憲業の子として生まれる(一説に生年は明応8年(1499年)とも)。
長野氏は上野西部の豪族であり、周囲の小豪族・国人の取りまとめ役のような立場であった。その集団は『箕輪衆』と呼ばれており、関東管領・山内上杉氏に属する勢力であった。業正は歴代長野氏の中で特に武勇に優れた武将であり、また義理堅い人物であったと伝えられている。盟主であった上杉憲政が北条氏康に敗れて上野を追われた後も、上杉家に義理を立て北条氏には従わなかった。
弘治3年(1557年)から武田信玄が6回にもわたって上野西部に侵攻して来たが、業正はこれをわずかな兵力をもって撃退している。永禄元年(1558年)には武田信玄率いる1万3千の軍勢を、業正は上州勢2万を率いて妙義山の東にある瓶尻の原で迎撃、約8時間にわたり激戦を展開した。業正自身も槍を取って奮戦したが、統制が取れずに敗退した。しかし武田勢もかなりの被害を受けており、箕輪城を取り囲んだものの、攻めきれずに退却している。また、永禄3年(1560年)に上杉謙信(長尾景虎)がかつての主君・上杉憲政を擁して関東に侵攻してくると、これに応じて北条氏康と戦い、やはり撃退している。このように小規模な軍で多数の兵を打ち破る戦術に長けた武将であったと言える。一説によると武田信玄は業正の武勇を警戒し、業正の生存中に上野を支配することに本腰を入れることができなかったとも言われている。
永禄4年(1561年)11月22日(異説として6月21日)、病死した。享年71。あるいは享年63。後を嫡男の業盛が継いだ。
[編集] 遺言
死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)
[編集] 人物・逸話
- 武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われている。
- 業正の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けた。
- 「上州の黄班」といわれる[要出典]ほどの猛将だった。
- 真田幸隆は武田信玄の家臣となる前に業正に仕えていた。業正が年をとって長野氏が衰えてくると幸隆は信玄の家臣になろうと考えた。そこで、密かに脱走を試みた。脱走は成功したが、ある峠で業正から手紙をもらい驚いた。そこには、幸隆の身を心配した内容が書かれていた。幸隆の妻や家臣達も殺されること無かった。幸隆は業正の器の大きさを感じたという。[要出典]
- 武勇ばかりが目立つが、娘を上野の諸豪族に嫁がせることで団結力を強めるなど、政略にも優れていた智勇兼備の名将である。