箕輪城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
通称 | |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
長野業尚 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸 |
位置 |
箕輪城(みのわじょう)は、日本の城。所在地は群馬県高崎市箕郷町東明屋・西明屋。国指定史跡。日本100名城の一つ。
[編集] 概要
箕輪城は西に榛名白川、南に榛名沼があり天然の堀を形成していた。榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城地は東西約500m、南北約1100m、面積約47haにおよぶ広大なものであった。現在の遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。
[編集] 沿革
戦国時代初期の永正9年(1512年)当地を支配する長野業尚によって築かれた。大永5年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたと言う説もある。なお、長野氏は在原業平の子孫である。
上野には有力な戦国大名が居らず、相模の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏が絶えず侵攻を繰り返す場であった。この様な中で長野氏は上杉氏の後ろ盾を得ていた。信業の子、業正は箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね名君と謳われ長野氏最大の版図を誇った。業正の代には武田信玄の侵略が度々繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保っていた。
永禄4年(1561年)業正が没すると(前年に没した説もあり)弱冠14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし。」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していた。翌、永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。
箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、武田氏の家臣・甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)から浅利信種を経て内藤昌豊(昌秀)が城代となった(元亀元年頃)。天正3年(1575年)長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると子の昌月が城代となった。天正10年(1582年)武田氏が滅亡するが、この機に乗じ北条氏政の弟・氏邦が侵攻した。同年、織田信長の家臣・滝川一益により氏邦は追われた。しかし、同年に信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直、氏邦の大軍が上野国に侵攻、神流川の戦いで一益を破り、氏邦が再度箕輪城に入城する。内藤昌月もこれに従った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造した。しかし、直政は慶長3年(1598年)高崎城に移り箕輪城は80余年の歴史に終止符を打った。
昭和62年(1987年)12月17日、国の史跡に指定された。