間部詮熙
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間部 詮熙(まなべ あきひろ、明和7年6月20日(1770年7月12日) - 文化8年12月21日(1812年2月3日))は、越前鯖江藩の第5代藩主。父は第4代藩主・間部詮茂。母は家臣の水谷氏の娘。正室は牧野貞長の娘・端冠院。官位は従五位下、主膳正、若狭守。子に間部詮允(長男)、幕末期の有名な藩主の一人・間部詮勝(三男)、娘(水野忠篤室)、娘(米倉昌寿室)がいる。
[編集] 経歴
幼名は内蔵。主膳。天明6年(1786年)、父の死去により後を継ぐ。公家の接待役や上野寛永寺の勤番を務めた。藩政においては凶作が相次ぎ、しかも参勤交代や幕命による公役負担の増加で出費が増大し、それによって藩財政が窮乏化してしまった。このため、厳しい倹約令を出し、さらに借金をローン制にし、上米制度も行なっている。
文学を奨励し、天明8年(1788年)に京都から芥川元澄を招いて、藩士子弟の教育や間部氏の鯖江における歴史をまとめた「越前鯖江誌」を編纂させた。詮熙自身は騎射に優れた才を見せたと言われている。没後、子の詮允が継いだ。法号:真霊院。墓所:福井県鯖江市深江町の万慶寺。
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