鯖江藩
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鯖江藩(さばえはん)は、越前国(現在の福井県鯖江市)に存在した藩。
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[編集] 概要
享保5年(1720年)9月、越後村上藩主・間部詮言(間部詮房の弟)が鯖江5万石に移封されたことから立藩した。ちなみに詮言の兄・詮房は第6代将軍・徳川家宣の信任を得て権勢を振るった側用人として有名であるが、家宣の子・徳川家継が死去して徳川吉宗の代になると失脚し、1720年に失意の内に死去した。しかし幕閣たちはかつての詮房の専横を恨んでいたらしく、その後を継いだ詮言に対しても懲罰的な移封を命じたのである。当時の鯖江は無城の上、城下町も無ければ牛馬もいない寒村しか無い僻地だった。このため、藩に入った間部氏はまず、城下町や藩邸の設営から手をつけなければならなくなり、享保7年(1722年)末にはようやく城下町の形成が整ってきたというところであった。しかしこのような城下町設営の莫大な費用のために、藩財政は火の車となった。
このため、幕末期に大坂城代や京都所司代、老中を歴任したことで有名な藩主・間部詮勝は領民に対する徴税強化や専売制による改革で財政再建を図ったが、あまりに領民に対して厳しい収奪を図ったために失敗した。なお、詮勝は日米修好通商条約締結における処理や公武合体運動に功績を挙げたが、その反面で井伊直弼と共に尊王攘夷派を徹底して弾圧したため、直弼の死後に一橋派であった徳川慶喜と松平慶永が政治の表舞台に復帰すると、直弼の与党であったという理由から文久2年(1862年)、隠居謹慎を命じられた上、1万石を減封されて4万石とされてしまった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 間部氏
譜代。5万石→4万石。
- 間部詮言(あきとき)従五位下。下総守。
- 間部詮方(あきみち)従五位下。丹後守。
- 間部詮央(あきなか)従五位下。主膳正。
- 間部詮茂(あきとお)従五位下。下総守。
- 間部詮熙(あきひろ)従五位下。若狭守。
- 間部詮允(あきざね)従五位下。主膳正。
- 間部詮勝(あきかつ)従五位下。下総守。
- 間部詮実(あきざね)従五位下。安房守。
- 間部詮道(あきみち)正五位。下総守。