陳琳
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陳琳(ちんりん、? - 217年)は、中国の三国時代広陵郡広陵の人で文官である。字は孔璋。
「建安七子」のひとり。はじめ後漢の大将軍何進(かしん)の元で主簿を務め、何進が宦官誅滅を計って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対した。
何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。
官渡の戦いで鄴城が陥落し、陳琳が曹操の前に引き立てられた際、曹操は陳琳にその檄文を読ませた。檄文は曹操のみならずその父や祖父まで痛烈に批判する内容であったが、曹操は自分が批判されているにも関わらずその檄文を誉め、さらに「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねると陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいかない」と答えたため、曹操は陳琳を許したというエピソードがある。
その後曹操に仕え、217年に疫病の大流行で病死した。曹丕(後の文帝)は彼をしのんで「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。
[編集] 関連項目
- 『文選』:曹操を罵倒した檄文が「名文」として収められている。