何進
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何進(かしん、134年? - 189年)は中国後漢末期の政治家。字は遂高(すいこう)。南陽(河南省南陽)宛の人。妹が皇后になったことで顕官を歴任し大将軍となり、黄巾の乱の鎮圧に当たった。鎮圧後に専権を振るうが、宦官に殺された。弟に何苗。孫は何晏。子の名前は不明だが、一説には何咸。
[編集] 略歴
何氏の家は元は屠殺業であった。しかし基本的には南陽の有力豪族であろうと考えられる。時に同郡出身の宦官郭勝がいたが、彼の後押しがあって異母妹は宮中に入り、霊帝に見初められついには皇后となった。184年に黄巾の乱が勃発すると大将軍となり、乱の鎮圧に当たった。何進自身は戦地には赴かず、黄巾の乱後の各地の反乱でも、つねに洛陽にあり、実質的な指揮者は張温、皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓、周慎らであった。この頃、中央では霊帝の皇后何氏と霊帝の母董氏の間で激しい対立があった。黄巾の乱が鎮定されると、霊帝の軍制改革が行われたが(石井仁、窪添慶文らによる霊帝時代の再評価を目指す研究成果)、西園三軍(西園八校尉)を設置し、上軍校尉に大將軍以下を総領する権限を与えたために、董氏と何氏の対立は宦官蹇碩をまきこんで激化した。これに対して中軍校尉の袁紹は何進と積極的に結びついてこれらと対立し、逼迫した蹇碩が何進の誅殺をくわだてたところで、宦官は郭勝を中心として蹇碩を見捨て何進に与した。ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除された。
霊帝が死ぬと、霊帝の悪政で朝野に鬱積していた不満が爆発し、特に宦官問題において世論の批判を浴びるようになった。 そこで何進は宦官蹇碩に殺されかけた怒りも重なって、漢王朝の病根となっていた宦官の除去に乗り出すが、何進らが袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮ったのに対し、何皇太后や弟の何苗は宦官を擁護した為、何氏同士で対立する構図にもなった。
何皇太后の強い宦官への弁護によって、改革が暗礁に乗り上げると、袁紹は地方の諸将を都に呼び、太后らに圧力をかけることを提案する。対して盧植・陳琳(曹操も反対したと王沈の『魏書』では伝えるが、このころ曹操には政治的な影響力が無く歴史的意味合いはない。)が反対したが、再三の袁紹の催促の結果、何進はこれを容れた。中には袁紹が大将軍の命と偽って各地に指令をだすこともあった。このように緊迫した中で、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、何進が宮中に出入りしたところで宦官によって殺害された。
[編集] 死後
宦官等は何進を殺すと、詔を偽造して都の兵を握ろうとしたが、まず虎賁中郎将の袁術が兵を挙げ、何進の部曲呉匡らと車騎将軍何苗と戦い、何苗は戦死した。袁紹も叔父で太傅の袁隗ならびに盧植とともに宦官らに親属していた許相らを斬り、宮中から宦官は一掃された。