随心院
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随心院 | |
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![]() 庫裡 |
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所在地 | 京都府京都市山科区小野御霊町35 |
位置 | 北緯34度57分34.18秒 東経135度48分58.63秒 |
山号 | 牛皮山(ぎゅうひざん) |
宗派 | 真言宗善通寺派大本山 |
本尊 | 如意輪観音 |
創建年 | 正暦2年(991年) |
開基 | 仁海 |
正式名 | |
別称 | 隨心院 |
札所等 | 真言宗十八本山11番 |
文化財 | 木造阿弥陀如来坐像、木造金剛薩埵坐像、絹本着色愛染曼荼羅図、随心院文書、紙本金地着色蘭亭曲水図八曲屏風2双(重要文化財) |
随心院(ずいしんいん)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。空海の8代目の弟子にあたる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。寺名は「隨心院」とも表記する。
目次 |
[編集] 歴史
当寺の前身である牛皮山曼陀羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)は、仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼陀羅寺」と名付けたという。
第5世住持の増俊の時代に曼陀羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。寛喜元年(1229年)第7世の親巌の時、後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。多くの伽藍が建造されたが応仁の乱によりほとんど消失した。その後慶長4年(1599年)に本堂が再建された。
[編集] 伽藍
- 本堂
- 上記の通り桃山期(1599年)の建築で寝殿造り。
- 薬医門、玄関、書院
- 能の間
- 総門、庫裡
- 宝暦3年(1753年)二条家よりの移築、庫裡は同家の政所であったもの。
[編集] 文化財
[編集] 小野梅園
境内には約230本の梅の木がある。山紅梅、白梅、薄紅梅などがあり2月末から咲き始め3月中旬が見頃となる。もっとも多い薄紅梅の色である薄紅梅色を「はねずいろ」ということから「はねずの梅」とも呼ばれている。
[編集] 小野小町ゆかりの遺跡
随心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされる。随心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め文塚、化粧の井戸などいくつかの遺跡が残る。