空海
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空海(くうかい、宝亀5年6月15日(774年7月27日) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(醍醐天皇、921年)でも知られる日本真言宗の開祖。俗名は佐伯真魚(さえき・の・まお、佐伯眞魚)。最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。
空海 | |
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774年7月27日 - 835年4月22日 | |
諡号 | 弘法大師 |
生地 | 讃岐国 |
没地 | 高野山 |
宗派 | 真言宗 |
寺院 | 高野山金剛峯寺 |
師 | 恵果 |
著作 | 十住心論他、多数 |
基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
目次 |
[編集] その生涯
[編集] 佐伯真魚の時代
讃岐国多度郡屏風浦の豪族・佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)の子、真魚として、現在の香川県善通寺市に生まれた。母親は阿刀氏の出身。空海が誕生したとされる6月15日は、中国密教の大成者たる不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承に繋がっていく。
15歳で、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅(おじ)である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる。
[編集] 仏道修行への道-空海の誕生
大学での勉学に飽き足らず、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されている)。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典にであったのもこの頃と考えられている。 さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修したこと、明星が来影するという形で行が成就したこと、が記されている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかと云われている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。
空海の得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804)、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。 また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。
[編集] 入唐求法-密教の継承
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。
ちなみに同じ第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はといえばまったく無名の一沙門でしかなかった。
この年の5月12日 (旧暦)、難波津を出、博多を経由し7月6日 (旧暦)、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第一船、最澄は第二船である。この入唐船団の第三船、第四船は遭難し、唐にたどり着いたのは第一船と第二船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日 (旧暦)、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆したことは有名である。11月3日 (旧暦)長安入りを許され、以後あらゆる辛酸を舐めながらも空海達一行が長安に入ったのは、その年も押迫った12月23日 (旧暦)であった。
永貞元年(延暦24年、805年)2月より西明寺に入り滞在。ここが空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日 (旧暦)に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日 (旧暦)には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智-不空-恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
12月15日 (旧暦)、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日 (旧暦)、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
3月、長安を出発。4月、越州に到り4ヶ月滞在、ここでも土木技術や薬学をはじめあらゆることを学び、経典等を収集。8月、明州を出航して帰国の途についた。
[編集] 虚しく往きて実ちて帰る
「虚しく往きて実ちて帰る」、この空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐したかれの成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰朝し、大宰府に滞在する。日本ではこの年の3月、桓武天皇が崩じ、平城天皇が即位していた。
空海は10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、~聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国した。当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしたことが確かめられる。決して無駄な時間ではなく、おそらく唐で受法した密教の体系を整理するための貴重な日々であった。
[編集] 真言密教の確立へ向かって
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位すると空海のまわりはにわかに動き出す。まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符をまって入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(のちの神護寺)に入った。この後、嵯峨天皇との交流も含め、京を中心に求心力を発揮していくことになるのである。
この空海の入京には、最澄の尽力・支援があった、と云われている。『請来目録』を見て空海が持ち帰った〈密教〉の重要さをこの時点で正確に評価しえたのは、おそらく最澄のみであった。その後二人は新しい時代の仏教を背負う者として、10年程ではあったが交流関係を持ったのである。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の元へ走った問題があげられる。だが、近年その通説には疑義が提出されている。二人の巨人の訣別を軽々しく『理趣経』等の問題に収斂させるべきではないであろう。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務める。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇する。入壇者には、最澄も含まれている。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範他190名にのぼった。
弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著す。
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年) 、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手。弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山にのぼり翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。
この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』等を立て続けに執筆。
弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授ける。
弘仁14年(823年)正月、官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称が用いられるようになるのはもう少し時代が下ってからのことのようである。
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には小僧都に任命され僧綱入り(天長4年には大僧都)。6月、造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となる。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』をあらわすとともに、京都(東寺の東側)に私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。『綜藝種智院式并序』には「物の興廃は必ず人に依る。人の昇沈は定んで道にあり」と、その教育の精神が述べられている。残念ながら綜芸種智院は、空海入定後に廃絶した。
天長7年(830年) 、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻をあらわす。
天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)をえ、6月大僧都を辞する旨上表するが天皇はこれを許さなかった。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。願文の「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」という言葉は空海の想いをよく表している。秋より高野山に隠棲。この頃より穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で法華経、『般若心經秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)をおこないたい旨を上奏。同29日、官符で許可。12月24日の官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
承和2年(835)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は場所を東寺に移して今もおこなわれている。1月22日、真言宗の年分度者3人を申請して許可。2月30日には金剛峯寺が定額寺となる。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日入定(にゅうじょう)した。62歳。
天長8年に病を得て以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに承和元年12月から入定までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、その密度の濃さは驚嘆に値するものと言えるのではないだろうか。すべてをやり終えた後に入定-すなわち永遠の禅定に入ったとされている。
[編集] 空海から弘法大師へ
延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られた。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生」(こうぼうりしょう)の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。
弘法大師、それは「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は、ある年齢から上の人びとには多いと言えるだろう。
真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定は死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、江戸初期の真念によって札番号を付けてまとめられ、俗に言う四国八十八箇所の寺々他多くの霊跡として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。
[編集] 空海の入定に関する諸説
高野山奥ノ院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。維那(いな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。また、『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。
このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後記』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。
[編集] 弘法大師とその伝説
「弘法大師」とは空海の諡号であるが、「弘法大師」と「空海」とは必ずしもイコールではない。弘法大師に関する伝説は、北海道を除く全国に5000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。柳田国男は大子(オオゴ 神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出しているが、他に中世、全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖の存在を忘れるわけにはいかないだろう。ただ、やみくもに多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇がその伝説形成の底辺にあることは疑い得ないことである。
大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物等々多岐にわたるが、おそらく多くの人にとってなじみ深いのは、弘法水に関するものだと思われる。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は全国で千数百件にのぼるといわれている。弘法大師の伝説や弘法水については以下のサイトが参考になる。
鎌倉~江戸時代の学者等により、空海は本朝における男色の開祖と推測されることもある。 徳川時代の川柳や笑話などにも、しばしば衆道を唐土から導入した人物として登場する。
[編集] 弘法大師の再評価
弘法大師は、江戸時代を通して、お大師さんとして人々に親しまれていた。しかし、純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだとして、本居宣長などによって批判された。明治時代に入ると廃仏毀釈運動によって一時的にその評価が落ちることになった。
弘法大師は、今もなお高野山に隠れているということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれるが、1884年のそれは明治時代初頭であったため,上の理由から低調だったという。そのためか、1934年の御遠忌は単なる宗教行事にとどまらず、大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。
このキャンペーンのなかで、かつて不純な思想を持ち込んだと批判された弘法大師は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として評価されるようになった。これは1934年という時代と関係している。日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでにこのとき開始しており、国民が団結して戦争に臨む必要があったのであり、そのために国民の英雄として弘法大師が再評価されたのである(森正人『四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』、創元社)。
[編集] 弘法大師が発見したとされる温泉
弘法大師が発見したとされる温泉は、日本各地に存在する。以下にそれを記す。
ただし、これらのなかには、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの場合もある。高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に教祖たる空海の名を借用したともいわれる。
[編集] 弘法大師により伝えられたという伝説・伝承があるもの
[編集] 弘法大師に関することわざ・慣用句
「弘法にも筆の誤り」…天皇からの勅命を得、大内裏応天門の額を書くことになったが、「応」の一番上の点を書き忘れてしまった。大師は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直しをされた。現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
「弘法筆を選ばず」…文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。但し空海自身は、よい書を書くためにはその時々によって筆を使い分けるべきであると言ったと伝えられている。「弘法筆を選ぶ」として、逆の意味のことわざとして用いられることもある。
「護摩の灰」…弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。
[編集] 関連
[編集] 関連小説
- 四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで(2005年 森正人)