青森信号場
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青森信号場(あおもりしんごうじょう)とは、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線東青森駅~青森駅間にあり、日本貨物鉄道(JR貨物)の管理に属する信号場。ここからは青森駅を経由せず、直接奥羽本線・津軽線につながる貨物支線(=通称『奥羽貨物支線』)が通じている。
もとは青森操車場(あおもりそうしゃじょう)であったが、大幅に規模が縮小され、現在のかたちとなった。
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[編集] 構造
- 本線は下り本線と上り本線の2線。青森駅までは複線だが、旅客線は高架になっている単線を限定使用するため青森信号所~青森駅間は実質単線扱いとなっている。そのため列車交換することがある。
- 側線は「着1番」から「着4番」まであり貨物列車が使用する。ここで牽引機の交換をする。また運転士交代も行われる。
- 構内にはJR貨物青森総合鉄道部(運転士が所属)、JR東日本青森車両センター東派出所(機関車のみ配置)がある。
- 信号場周辺には公園化こそされていないが花壇(約0.4ヘクタール)があり、青森市の隠れた名所として親しまれている。現在この整備を行っているのは「街まんなか花いっぱいにする会」である。
[編集] 歴史
かつて青森操車場は東北三大操車場と呼ばれていた。かつては東西約900m、南北30-250m、面積は約21.5ヘクタールあった。貨物列車の取扱数は1970年では一日当り約300両であった。浦町駅に抜ける当時の東北本線は操車場の半ばを過ぎた辺りで分岐するが、操車場自体は開設当時から現在の位置にあった。敷地はさやえんどうのような形に見えるが、当時の操車場は中央部付近に建物があった関係上さやえんどうを西部に1つ東部に2つ組み合わせたような線路形状をしていた。この操車場が出来たことで鉄道の貨物輸送能力は発達したが、青森市のメインストリートである柳町通りを分断することになったため青森市の住民が当時の周辺の村に行くことが少し困難となった。現在は青森中央大橋が作られ、一応は再びメインストリートのイメージを取り戻した形にはなっている。
1970年代の東北新幹線盛岡以北計画策定時、および1990年代から2000年頃まではミニ新幹線構想が浮上した際には、ここに新幹線の新駅を置くべきとの提案があった。
現在東部操車場跡地の青い森セントラルパークに新駅が作られることが検討されており、場合によっては滝内信号所のように駅構内扱いの信号所になることも考えられる。
[編集] 年表
- 1926年(大正15年)10月25日 - 青森操車場の使用が開始される。同時に青森駅と浦町駅との間にそれぞれ小運転線が開通しており、これをもって青森駅~浦町駅間の複線化とする資料もある。奥羽貨物支線もこの時開通。
- 1945年(昭和20年)8月10日 - アメリカ軍によってターゲット997とナンバリングされ爆撃される。
- 1966年(昭和41年)8月1日 - 青森操車場~青森駅間の小運転列車と本線列車を立体化することを常務会で決定。本線の高架化工事が行われる。本線はこれにより複線化した後も実質単線扱いとなる。
- 1968年(昭和43年)7月21日 - 東北本線ルート変更。東北本線が完全に並行する形となる。
- 1984年(昭和59年)2月 - 操車場機能廃止。西側が青森信号場として使用が続けられることになる。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 青森信号場に改称。
- 1988年(昭和63年)3月13日 - 北斗星3・4号の運転士・車掌交替が行われるようになる。後に青森駅に変更。
- 2002年(平成14年)8月25日 - 市民と企業と行政の連携の下で信号場周辺に約30,000本の花が植えられた。
- 2003年(平成15年)4月25日 - 青森信号場東の操車場跡地に青い森セントラルパークが開園する。
- 2006年(平成18年)3月18日 - 北斗星1~4号、トワイライトエクスプレスが青森駅経由から奥羽貨物支線経由に変更となり、運転士交代及び機関車交換を行うことになる。
[編集] 周辺
[編集] 関連項目
- 青い森セントラルパーク…操車場跡地に設けられた公園。