額安寺
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額安寺(かくあんじ)は奈良県大和郡山市額田部寺町(ぬかたべてらまち)にある真言律宗の寺院である。山号は熊凝山(くまごりさん)。本尊は十一面観音。寺名は「がくあんじ」ではなく「かくあんじ」と呼ばれている。
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[編集] 歴史
大和郡山市の南端近く、大和川と佐保川の合流地点付近に位置する。飛鳥時代に聖徳太子の建立と伝えられ、大安寺の前身である熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)跡ともいわれるが、実際にはこの地を本拠としていた豪族額田部(ぬかたべ)氏の氏寺として建立されたものと思われる。
天平19年(747年)の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう、国立歴史民俗博物館蔵)によれば、南都七大寺の1つである大安寺の前身は、聖徳太子が額田部の地に建立した熊凝精舎であって、これが後に移転と改称を繰り返した後、平城京の大安寺となったという。しかし、熊凝精舎を大安寺の前身とする説は他に裏づけとなる史料がなく、疑問視されている。大安寺の平城京移建に貢献した僧・道慈が額田部氏出身であることから、このような説が生じたのではないかとも言われる。
かつて額安寺に伝来し,現在では国立歴史民俗博物館に所蔵される「額田寺伽藍並条里図(ぬかたでらがらんならびにじょうりず、国宝)」によれば、奈良時代には金堂・講堂・三重塔が建ち並び、大いに栄えていたようである。この伽藍並条里図は、画面に記入されている人名等から天平宝字年間(757 - 765年)頃の作成と推定され、額田寺(額安寺)の創建がこれ以前であることを裏付けている。
平安時代には寺勢が衰えたが、鎌倉後期に西大寺の叡尊・忍性らにより再興された。室町時代には兵乱によって再び荒廃したが、後に豊臣秀吉により再興された。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
- 木造文殊菩薩騎獅像-平安時代後期の作
- 木心乾漆虚空蔵菩薩半跏像-奈良時代~平安時代初期の作
- 五輪塔 8基-寺の北側の境外墓地に立つ。うち1基に永仁5年(1297年)銘がある。
- 五輪塔納置品
- 昭和57年(1982年)の五輪塔修理の際に見出されたもの。鎌倉極楽寺開山の良観上人忍性(嘉元元年/1303年没)ならびに忍性の弟子で極楽寺3世の善願上人順忍(嘉暦元年/1326年)の骨蔵器などの一括遺品である。忍性は鎌倉時代に戒律復興と社会事業に努めた僧で、その遺骨は極楽寺、額安寺、生駒の竹林寺の3か所に分骨された。忍性の骨蔵器は瓶子のような独特の形のもので、竹林寺の忍性墓からも、額安寺のものと同形式の銅骨蔵器が出土している。
[編集] アクセス
[編集] 所在地
- 大和郡山市額田部寺町36