飛鳥文化
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飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。そのころには聖徳太子などもいた。
朝鮮の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。 多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
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[編集] 年号
- 大化(たいか)
- 白雉(はくち)献上された白雉により改元する。
[編集] 宮都
- 小墾田宮(おわりだのみや)
- 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)
- 難波宮(なにわのみや)…昔は、仁徳天皇が難波高津宮(なにわのたかつのみや)を営んだ地である。継体朝には、百済の武寧王の使者をは難波館に止め、外交折衝もそこで行った。また敏達朝にも百済の威徳王の使者をもてなしている。さらに、推古朝には隋の使者裴世清(はいせいせい)がやってきた時にはわざわざ新館を造営したといわれる。難波には外交・貿易などに携わる役人の庁舎があり、大郡(おおごおり)・小郡(おごおり)とよばれた。外交事務に当たる難波吉士(なにわのきし)として、語学に堪能な帰化人が置かれた。
[編集] 遣隋使・遣唐使
- 「姓」…中国王朝との外交から「姓」の制度が起こったらしい。そして、庶民にまで拡大していったが、何故か、天皇だけは「姓」の制度に組み込まれなかった。発端は、遣隋使であった小野妹子が「姓」を訪ねられ、居住地の名を称したことからであるらしい。
- 学生や僧が留学する。後の大化の改新や天武の新政に活躍した。
[編集] 仏教文化
仏教の百済からの公伝は宣化・欽明朝の538年(宣化3)または552年(欽明13)といわれているが、当時仏教受容の先頭を切ったのは蘇我稲目であり、仏教の摂取と流布に大いに貢献した。物部尾輿(おこし)が反対したことにより、蘇我氏との対立が激化し、遂に馬子と守屋が衝突し、戦乱を招いた(『日本書紀』)。
仏教の伝来のはじめの頃は、蘇我稲目が欽明天皇から、私に礼拝することだけを許してもらい、百済の聖王が日本の朝廷の伝えてきた金銅釈迦像・経典若干卷のうちの仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し、さらに向原(むくはら)の家を清めて向原寺(こうげんじ)とした(『日本書紀』)。
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)高句麗僧慧慈(えじ)が帰化して太子の師となり、同年、百済からきた慧聰(えそう)と共に「三宝(さんぽう)の棟梁(むねうつばり)であった。翌年飛鳥寺の寺司(てらのつかさ)馬子の男善徳(こぜんとく)が任じられ、二僧はここに住まうようになる。
[編集] 官寺
飛鳥寺や四天王寺は、発願者の意図と違って国家的な寺院であった。造寺・造仏の技術者は主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。
- 四天王寺…難波(大阪)。聖徳太子創建の日本で最初の本格的な官寺。
[編集] 氏寺
594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺を造り始めたのが氏寺(うじでら)である。
- 『日本書紀』崇峻天皇元年の条に「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊ちて、始めて法興寺(ほうこうじ)を作る。」とある。飛鳥の地に作られたので飛鳥寺とよばれ、法号で法興寺とも元興寺ともよばれた。平城遷都以後、主要伽藍は残され本元興寺と呼ばれた。現在の正式名称は安居院(あんごいん)である。
- 崇峻朝の588年(崇峻元)に着工され、596年(推古4)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。日本で最初の本格的な私寺である。
- 伽藍は、ほぼ南北に通る中軸線上に南から南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並んでいる四天王寺式であるが、塔の東西にも金堂が置かれ、中門から出ている回廊はその外側を通って、金堂の背後で閉じている。中金堂は、今の安居院(あんごいん)の地にある。安居院で今も祭っている飛鳥大仏は、鞍作鳥の作った金銅仏であり、昔ながらの位置を保っていることがその下の基壇の調査によって明らかになった。
- 593年(推古元)塔の心礎に仏舎利を安置したという(『日本書紀』)。これ以後の皇居(宮)もほぼこの飛鳥寺を中心にした飛鳥に置かれた。飛鳥寺の中軸線と天智朝の末年か天武初年に建てられた川原寺の中軸線との中心線(中道)は、天武朝の藤原京の設定の一基準となり、両中軸の間隔は亦、飛鳥の方格地割りの基準となった。
- 百済大寺
- 舒明の没後、妻の皇極、子の天智によって継承され、639年(舒明11)に完成された天皇家最初の仏教寺院である。現在の吉備池廃寺跡に比定されている。完成時には、蘇我氏発願の飛鳥寺を遙かに凌ぎ、九重の塔がそびえ建ち、高さは法隆寺の五重塔の二倍もあり、現代の25階ビルに相当し、当時の東アジアでも超一級の寺院であった。
- 聖徳太子の発願による。地名による飛鳥寺や斑鳩寺が古い呼称であって、法興(ほうこう)寺や法隆(ほうりゅう)寺は少し後の名である。
- 秦寺(広隆寺)…秦氏
- 渋川廃寺…物部氏(大連守屋)、大阪府八尾市渋川町。物部氏も仏教を受容していた。崇仏、排仏論争は蘇我氏が語り伝えたもので、馬子と守屋の政治権力闘争であった。
- 峯岡寺…葛野(かどの、京都市)
- 坂田寺…南淵(みなみぶち、明日香村)
- 豊浦寺(とゆらじ)…蘇我蝦夷
[編集] 『三経義疏』
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、仏教に深く傾倒した厩戸(うまやど)王子の著作といわれている。天寿国曼荼羅繍帳にある「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)という言葉は、厩戸王子の晩年の心境をよく窺うことが出来るとされている。
- 中宮寺に残る天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)
[編集] 飛鳥地方の各種の石造物
飛鳥各地に存在する猿石・道祖神石、橘寺の二面石などと呼ばれる石造物、宗教の遺物と考えられている。
[編集] 彫刻
- 北魏様式…鞍作鳥(止利仏師)作品
- 『飛鳥寺釈迦如来像』(飛鳥大仏)
- 『法隆寺金堂釈迦三尊像』
- 『法隆寺夢殿救世観音像』
- 南梁様式(南朝様式)
- 『法隆寺百済観音像』
- 『広隆寺半跏思惟像』(弥勒菩薩像)
- 『中宮寺半跏思惟像』(弥勒菩薩像)