法隆寺
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法隆寺 | |
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![]() 西院伽藍遠景 |
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所在地 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 |
位置 | 北緯34度36分53.06秒 東経135度44分3.02秒 |
山号 | |
宗派 | 聖徳宗総本山 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | (伝)推古天皇15年(607年) |
開基 | 推古天皇・聖徳太子 |
正式名 | |
別称 | 斑鳩寺 |
札所等 | 南都七大寺7番 |
文化財 | 金堂、五重塔、夢殿他(国宝) 中門金剛力士像他(重要文化財) 世界遺産 |
法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳宗の総本山。別名:斑鳩寺(いかるがでら)。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
目次 |
[編集] 起源と歴史
[編集] 創建
法隆寺は「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。『<聖徳太子>の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。
現存する法隆寺西院伽藍が7世紀末~8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に本格的寺院が営まれたことは史実と認めてよいと思われる。
通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。
前述の金堂薬師如来像については
- 像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の制作は7世紀後半に下るとみられること
- 607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視されること
- 銘文中の用語に疑問がもたれること
という理由から、文字通り607年までさかのぼる制作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘をもつ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である。
このように、若干の不明点は残るものの、法隆寺の創建が7世紀前半の聖徳太子在世時にさかのぼることは、発掘調査の結果等からも明らかである。皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた(くわしくは後述)。なお、発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査などの裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は670年の焼失後の再建であるということは定説となっている。
ただし、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのかなど、再建の事情については謎も多い。焼失前の旧伽藍(いわゆる「若草伽藍」)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している。さらに、現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは定かでない。
再建時期についても明確な記録はないが、現存の西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、7世紀末、持統天皇の頃の建立と考えられている。五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築と見られる。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は和銅4年(711年)の制作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。なお、平安時代に書かれた『七大寺年表』には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。
一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子をしのんで建立したものである。
延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、永享7年(1435年)には南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。
近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄~宝永年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。
近代に入ると、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。
1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挟んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。1950年に法相宗から独立した。
1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。
[編集] 再建・非再建論争
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼(くろかわまより)、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。
- 非再建論の主張
- 法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
- 薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
- 日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など
- 再建論の主張
- 日本書紀の記事は正確である。
- 飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。 など
- この他、論争の過程で、飛鳥時代に2つの寺が並存していた(一方が焼失した)等の説も出された。
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した画像による年輪年代測定の結果を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は668年(天智7) - 685年(天武14)ころに伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀末の再建であることがあらためて裏付けられた。
なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって594年(推古2)に伐採されたと推定されており、他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。
再建説であっても、法隆寺が世界最古の木造建築であることには変わりはない。また、「再建・非再建論争」は、美術史をはじめ歴史の研究においては遺構のみ、あるいは文献のみではなく、様々な分野から総合的に検討を行う必要があることを示し、学問の発展に大いに貢献した。
[編集] 伽藍と文化財
[編集] 西院伽藍
南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。
- 中門(国宝)-入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。
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- 金堂(国宝)-入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物(軒の出を支える建築部材)は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔のみに見られる様式で7世紀建築の特色である。
二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重文)と柱は現存しており、寺内大宝蔵殿北方の収蔵庫に保管されているが非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の外側と二階のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財保護デーになっている。
堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
- 釈迦三尊像(国宝)-「起源と歴史」の項で述べた、623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。
- 薬師如来坐像(国宝)-「起源と歴史」の項で述べた東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。
- 阿弥陀三尊像(重文)-鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。なお、両脇侍像のうち1体は明治時代に寺外に出て、現在フランス・ギメ美術館蔵となっており、現在金堂にあるのは模造である。
- 四天王立像(国宝)-飛鳥時代の作。釈迦三尊像等と違って、銅造でなく、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。
- 毘沙門天・吉祥天立像(国宝)-中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。
- 吉祥天立像(重文)-諸像の背後に北向きに立つ。奈良時代の塑像だが、補修が多く、表面の仕上げはほとんど後世のものに代わっている。
なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。
- 五重塔(国宝) - 木造塔として日本最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表わす。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画(現在は別途保管、重文)があったが、剥落が激しい。
- 回廊(国宝) - 金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。
- 経蔵(国宝) - 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正坐像(重文)を安置するが、内部は非公開。
- 鐘楼(国宝) - 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。
- 大講堂(国宝) - 平安時代の建立。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。
[編集] 東院伽藍
聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。
- 夢殿(国宝)-天平時代の建立。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。
- 観音菩薩立像(救世観音)(国宝)-飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(天心らによる「発見」の経緯については伝説化されている部分もあり、真相は必ずしも明らかでない)。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。当初のものと思われる金箔がよく残る。
- 行信僧都坐像(国宝)-天平時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。極端な吊り目の怪異な容貌が特色。
- 道詮律師坐像(国宝)-平安初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物。
- 聖観音立像(重文)-救世観音の背後に立つ。
絵殿及び舎利殿(重文)-鎌倉時代の建立。
伝法堂(国宝)-橘夫人(県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)と寺伝承では伝えられるが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。
東院には他に南門(鎌倉時代、重文)、四脚門(鎌倉時代、重文)、鐘楼(鎌倉時代、国宝)がある。
[編集] 大宝蔵院
百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。
- 観音菩薩立像(百済観音)(国宝)-飛鳥時代、木造。もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。和辻哲郎の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。
- 観音菩薩立像(九面観音)(国宝)-唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。
- 観音菩薩立像(夢違観音)(国宝)-奈良時代、銅造。もと東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。
- 地蔵菩薩立像(国宝)-平安時代、木造。桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分離で法隆寺へ移動した。大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。
- 六観音像(重文)-奈良時代、木造。六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」、「日光・月光菩薩」、「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の異なる3対の像から成る。東京の根津美術館には、この六観音像と酷似した菩薩像があり、もとは8体あったものとも言われる。
- 梵天・帝釈天立像、四天王立像(重文)-いずれも奈良時代の塑像で、もとは食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。
- 玉虫厨子(国宝)-飛鳥時代。もとは金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸、絵画の遺品として重要である。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)は特によく知られる。
- 橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像(国宝)-奈良時代。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は奈良時代の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表わされている。
- 金堂小壁画(重文)-1949年の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。
また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。 保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。
[編集] 大宝蔵殿
大宝蔵院とは別個の建物。1939年の建設で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。現在は、春秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれないさまざまな寺宝を公開している。
[編集] その他のおもな堂宇
法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇や子院と呼ばれる付属寺院がある。なお、西円堂以外の堂内や仏像は原則として非公開である。
- 南大門(国宝)-西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代(1438年)の建立。
- 西園院客殿(重文)、西園院上土門(あげつちもん、重文)、西園院唐門(重文)-西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。なお、西院・東院の築地塀も重文に指定されている。
- 大湯屋(重文)、大湯屋表門(重文)-西園院の西方、築地塀の内側にある。
- 新堂(重文)-西園院に接して建つ持仏堂。薬師三尊像、四天王像(各重文)を安置。
- 護摩堂-南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。不動明王及び二童子像、弘法大師坐像(各重文)を安置。
- 聖霊院(しょうりょういん)(国宝)-西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立。聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、如意輪観音半跏像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。
- 東室(ひがしむろ)(国宝)-聖霊院の北に接続して建つ。後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。
- 妻室(つまむろ)(平安時代、重文)-東室の東に建つ細長い建物。
- 三経院及び西室(国宝)西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建つ。鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像(各重文)を安置。
- 西円堂(国宝)-西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置する。
- 薬師坊庫裏(重文)-西円堂の背後に建つ。
- 上御堂(重文)-西院伽藍の大講堂の真裏(北)に建つ。鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。通常非公開だが、毎年11月1日~3日に限り堂内を公開。
- 地蔵堂(重文)-西円堂の東側石段下に建つ。地蔵菩薩半跏像(重文)を安置。
- 食堂(じきどう)(奈良時代、国宝)および細殿(ほそどの)(鎌倉時代、重文)-西院伽藍の東方北寄りに建つ。食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑像だが、補修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。
- 綱封蔵(こうふうぞう)(国宝)-聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫である。
- 東大門(国宝)-西院から東院へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。
- 旧富貴寺羅漢堂(重文)-西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の富貴寺(無住)にあり、荒れ果てていたのを、細川護立(侯爵、美術史家)が引き取り保存していたが、後、法隆寺へ寄進。平安時代の三重塔の初層のみが残ったものと思われる。
[編集] 子院
- 中院本堂(重文)-境内西端にある。
- 宝珠院本堂(重文)-境内西端にある。堂内に文殊菩薩騎獅像(重文)を安置。
- 律学院本堂(重文)-西院から東院へ向かう道筋の北側にある。
- 宗源寺四脚門(重文)-西院から東院へ向かう道筋の北側にある。
- 福園院本堂(重文)-西院から東院へ向かう道筋の南側にある。
- 北室院本堂、同・太子殿、同・表門(各重文)-東院伽藍の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。
[編集] 法隆寺献納宝物
明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、代償として一万円を下賜された。この皇室の援助のおかげで7世紀以来の伽藍や堂宇が維持できることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華経義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)
[編集] 指定文化財
[編集] 国宝
建造物
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美術工芸品
- 銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
- 銅造薬師如来坐像(金堂安置)
- 木造四天王立像(金堂安置)
- 木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
- 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
- 木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
- 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
- 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
- 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
- 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
- 木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
- 木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
- 木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)
- 木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
- 木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
- 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
- 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
- 玉虫厨子
- 黒漆螺鈿卓
- 四騎獅子狩文錦
[編集] 重要文化財
建造物
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絵画
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彫刻
指定件数が多いため、安置場所ごとに区分して示した。同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注記した。
- (中門安置) 塑造金剛力士立像(吽形躰部木造)
- (金堂安置)金銅阿弥陀三尊像(康勝作)(注1) 塑造吉祥天立像
- (経蔵安置)木造伝観勒僧正坐像
- (大講堂安置)木造四天王立像
- (聖霊院安置)木造地蔵菩薩立像 木造如意輪観音坐像
- (三経院安置)木造阿弥陀如来坐像 木造持国天・増長天立像
- (西円堂安置)木造十二神将立像(注2) 木造千手観音立像
- (地蔵堂安置)木造地蔵菩薩半跏像
- (上御堂安置)木造四天王立像
- (食堂安置)塑造薬師如来坐像
- (新堂安置) 木造薬師如来両脇士像 木造四天王立像
- (護摩堂安置)木造不動明王及二童子立像 木造弘法大師坐像
- (宝珠院本堂安置)木造文殊菩薩騎獅像(宝珠院所有)
- (夢殿安置) 木造聖観音立像 木造聖徳太子立像
- (伝法堂安置)乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(1909年重文指定、中の間本尊) 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(1902年重文指定、西の間本尊) 木心乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(東の間本尊)(注3) 木造梵天・帝釈天立像 木造四天王立像 木造薬師如来坐像 木造釈迦如来坐像 木造弥勒仏坐像 木造阿弥陀如来坐像
- (北室院本堂安置)木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院所有)
- (大宝蔵院所在) 金銅薬師如来坐像(伝西円堂薬師如来胎内仏)木心乾漆弥勒菩薩坐像 木造文殊普賢菩薩立像(伝六観音のうち) 木造日光月光菩薩立像(伝六観音のうち) 金銅観音菩薩立像(注4) 金銅観音菩薩立像3躯(注5) 塑造梵天・帝釈天立像 塑造四天王立像 厨子入木造聖徳太子坐像円快作 厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付) 磚製阿弥陀如来及脇侍像 木造伎楽面1面 木造舞楽面35面 木造行道面(聖霊会所用)10面 木造菩薩面3面
- (大宝蔵殿所在) 木造千手観音立像 木造弥勒菩薩坐像 木造弥勒菩薩半跏像 木造薬師如来坐像 木造釈迦如来坐像 木造阿閦如来坐像 木造阿弥陀如来坐像(像高92cm、1906年重文指定) 木造阿弥陀如来坐像(像高34cm、1906年重文指定) 木造聖観音立像(像高165cm、1897年重文指定) 木造聖観音立像(像高182cm、1909年重文指定) 木造普賢延命坐像 木造天鼓音如来坐像 木造観音勢至菩薩立像 木造如意輪観音坐像 木造善女竜王立像 金銅釈迦如来文殊菩薩像一座(戊子年銘) 銅造観音菩薩立像(伝・金堂薬師如来脇侍)2躯 木造光背 金銅僧徳聡等造像記(甲午年銘) 木造追儺面3面
- (その他) 木造阿弥陀如来坐像(東京国立博物館寄託、1909年重文指定) 金銅釈迦如来立像(1910年盗難)
- (注1)1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として重文(旧国宝)に指定。3躯のうち中尊像と左脇侍像(観音菩薩)のみが鎌倉時代の仏師康勝の作で、右脇侍像は奈良時代作の観音菩薩像(大宝蔵院所在)である。本来の右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に盗難に遭い寺外に流出し、フランス・ギメ美術館の所蔵。現在、金堂にある右脇侍像はギメ美術館像の模造である。
- (注2)12躯のうち、戌神像、亥神像の2躯は他の10躯とは別個に重文に指定されている。
- (注3)中尊像と両脇侍像は別個に重文に指定されている。
- (注4)上記(注1)参照。
- (注5)1902年に金銅誕生釈迦仏立像1躯、金銅観音菩薩立像5躯の計6躯一括で重文(旧国宝)に指定されたものの一部。誕生釈迦仏と観音像2躯は1903年盗難に遭い、寺に残るのは観音像3躯のみである。
工芸品
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書跡典籍、古文書、歴史資料
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(注)称徳天皇の発願によって制作された「百万塔」は、昭和資材帳調査の結果、法隆寺内に4万5千基余が存在することが判明した。このうち重文指定を受けているのは1908年に指定された102基のみである。
[編集] 宝鐘の発見
仏具の用語としてしか残っていなかった「宝鐘」が法隆寺で発見され、どういうものか初めて判明した(1992年1月10日付)。環形蛍光灯をひもでつなぎぶら下げたような形で、室町時代以前の作であることが傘の裏の墨書銘からわかった。建物の軒の下にぶら下げたらしい。
[編集] ギャラリー
[編集] アクセス
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 法隆寺公式HP
- 塔の見える風景、斑鳩散歩法隆寺再建についてのまとめ