香宗我部親泰
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香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす、天文3年(1543年) - 文禄2年(1593年))は長宗我部元親の弟。子に香宗我部親氏・貞親がいる。
[編集] 経歴
長宗我部国親の三男で、1558年に父の命によって香宗我部親秀の養子となった。1569年には安芸城主となる。その後は兄に従って各地を転戦、1582年の中富川合戦で十河存保を破り、1583年木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した。他面、親泰は外交にも秀でていた。1575年の長宗我部信親の烏帽子親を織田信長になってもらい、以後、織田氏と同盟を結んだこと、信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものとされる。
しかし1592年、朝鮮の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死、親泰代わりに朝鮮半島に赴く途上に長門で彼もまた兄に先立って急死した。吉良親貞同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手となった。