馬場元子
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馬場 元子(ばば もとこ、1940年 - )は、ジャイアント馬場夫人(未亡人)で元全日本プロレス社長、元全日本プロレスオーナー。兵庫県出身。2005年現在、ジャイアント馬場の肖像権などの管理会社である株式会社ミスタービィの社長を務める。
[編集] 経歴
兵庫の旧家で育ち、15歳の時に自宅近所でキャンプを行っていた読売ジャイアンツ投手・馬場正平と出会う。以降、アメリカに留学していた際に馬場もプロレスラーとして遠征していたことから交際が始まり、1966年に実質的婚約。1982年に籍を入れた。マスコミ関係者は馬場と元子が(実質的に)結婚していることを知っていたが、その事実は一般ファンには非常に長い間('80年代半ばまで)伏せられていた。そのため馬場に対して「ライバルのアントニオ猪木が女優の奥さん(倍賞美津子)と結婚しているのに、馬場はいい歳をして独身」という揶揄もあったほどだ。
一説に、馬場が全日本プロレスを創立する際、元子の実家から資金援助があったと言われる。そのせいもあるのか、元子は全日本の遠征にも帯同していく日々だったが、気丈な性格で数々の選手と衝突していたらしい。全日本プロレスの現場は、社長の馬場が仕切っているのではなく、元子が仕切っていたという証言もある。
特に自らが経営するジャイアント・サービスを通じてグッズ販売を独占し、全日本プロレスとは別会計であるばかりか、選手にはロイヤリティすら入らなかったという。そのため1990年代には当時現場責任者であった三沢光晴からジャイアント馬場に「奥様には会社から退いてもらうことは出来ませんか?」と相談があるほどであった。
なおスタン・ハンセンは元子を支持していたと言われる。これについては、全日本プロレスに参戦した外国人選手等が待遇面での良い思い出として、馬場とともに元子の名前を必ず挙げていたことからも窺い知ることができ、ハンセンの元子支持は、日本人選手より外国人選手を厚遇していたことを皮肉にも証明するものとなった。
1999年、ジャイアント馬場が逝去。三沢社長下となった新役員体制で全日本プロレス取締役となる。しかし、株式は元子が握っていたため、三沢は思ったように舵が取れず、改革を訴える三沢に対し、度々反発していたという。時にはインターネットの掲示板の書き込みから、たった一件の悪口を見つけ、会社に「これはどういうことなの?」と言いつけることまであったと言う。また、オーナーとして三沢に支払ったボーナスは十万円程度だったと言われている。
2000年、三沢以下社員40名以上が全日本を退社、プロレスリング・ノアを立ち上げ、元子は全日本プロレス代表取締役社長に就任する。その後2002年に武藤敬司が移籍、社長となったが、三沢社長時同様、株式の譲渡が無く、新日本プロレスから移籍してきた社員と衝突。この時期、全日本プロレスは、業績の悪化に歯止めがかからず、武藤自身が元子の下へ金銭的な援助を求めるが、門前払いを喰っている。
これはまずいと思った和田京平ら生え抜き社員は、川田利明・和田京平・渕正信の生え抜き役員3人の連名で「武藤社長への株式譲渡を求める。無い場合は全選手・社員で全日本プロレスを出る」といった文書を元子に提出。全日本プロレスの85%株式を武藤に無償譲渡し、オーナーを退いた。現在はハワイに在住。
かつて、ジャンボ鶴田夫人である鶴田保子と仲がよく、保子未亡人も三沢らの大型離脱の際「三沢くんに全日本を潰す権利は無い」と語ったものの、後に自身のホームページで「三沢くんの気持ちがやっと分かった」「元子さんは許せない」と語っている。
その他元子に対する批判は多く、2001年の「ジャイアント馬場三回忌興行」(東京ドーム大会)の際、「この大会の収益金で正平寺を建てる」とファンに公約しておきながら、未だに墓すら建てていないことが批判の中心にあるようだ。馬場ファンにとっては、お参りする場所もないため、一刻も早い建設を望まれている。
馬場の死去後、馬場との思い出をつづった著書『ネェネェ馬場さん』(講談社)を上梓している。